そして、時は過ぎ。私は脚本家になり、とあるテレビ番組の収録で実物の鴻上尚史に会うこととなる。もちろん「『朝日のような夕日をつれて』、好きでした、タイトル」と伝えた。演劇自体は見てないけれど、と。
印象的だったのは、その時のテレビ収録での鴻上さんの発言だった。やっぱりそこでも悩み相談みたいなことをやっていたのか詳しくは忘れたが、人をまとめるにはどうすれば、いいか?というような質問に対して、鴻上さんは、僕は劇団をやっている、演出をやっている、基本、誰も僕の言うことなんか聞きゃしない(意訳してます)。そんな時どうするか? 自分がどうしたいか? どう思うか? ではなく、その相手の文脈の中に立って考え、この人に何をどう言えば、どう誘導すれば自分(鴻上さん)の思うような動きをしてくれるか、を考える、と仰った。
凄い!と私は思った。
私は、いつだって、自分の意図を伝えるために、一生懸命自分の心と向き合って、正しく伝えようとして来た。でも、鴻上さんは違った(演出する場合、ということかもしれないけれど)。相手にどう言えば響くか、どう言えば結果、相手が自分の思うように動いてくれるか、納得するか、を考えるのだ、ということだった。要するに、それって人によって言い方は変わるんだろう。ホーッとその場が感心のため息に包まれた時、私は質問した。
「でも、それは鴻上さん自身の思いは、心はどうなるの?」
私の質問は、宙に浮いたまま、誰にも拾われることはなかった。
それから今まで、鴻上さんのお芝居も見に行けば、お食事もたまにさせてもらうようになり、そして気がつけば、鴻上さんは、「アエラドット」でキレッキレの悩み相談をしているのである。目から鱗の数々の興味深い考察と発言。私には出来ない。悩み相談は人が試される。何度かやったことがあるが、こんな的確なことを言えた試しがない気がする。なぜなら私は結局、自分の心を見つめ始めるからだ。自分の文脈でしかものを語れないからだ。