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菅原道真、平将門、崇徳天皇の三人は、「日本三大怨霊」として名高い。共通しているのは没した後、朝廷に災いをもたらしたとされ、やがて神として祭られたということだ。9月14日はこのうちの崇徳天皇の命日にあたる(旧暦8月26日)。平安時代、平氏と源氏が武士として台頭し始めたころ、3歳で即位し22歳で譲位をした天皇である。
●父から受けた「叔父子」の恨み
崇徳天皇がなぜ怨霊になったかを一言でいえば、弟(後白河天皇)との確執に苦しんだゆえなのだろう。
崇徳帝は誕生から気の毒な境遇であった。父・鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれ避けられる子だったのだ。これは崇徳帝の父が鳥羽帝ではなく、曽祖父にあたる白河法皇と母・璋子の密通の結果生まれた子だという意味である。つまり、本当は叔父さんにあたる人物という意味で、父からそう呼ばれていたのである。このことが、鳥羽帝と崇徳帝の間に距離を作った。崇徳帝には何ら責任のないことではあるのだが。
●崇徳帝と後白河帝の兄弟喧嘩ではすまず
加えて、白河法皇が鳥羽帝に譲位を迫り、幼い崇徳帝を天皇にしたことが、鳥羽帝に一層の憎しみを与えた。これがのちに白河法皇没後に誕生した崇徳帝の弟・近衛天皇への譲位を、鳥羽帝が迫ることにつながるのである。このとき近衛帝はわずか2歳、しかも16歳の若さで崩御してしまう(呪詛されたとの説も)。次に鳥羽帝が指名したのが、崇徳帝の弟・後白河天皇だった。ここから長く苦しい崇徳帝と後白河帝の確執と戦いが始まる。
ただの兄弟喧嘩ですまなかったのは、ここに藤原氏同士の争いや、平氏と源氏の中での確執も関係したからである。それぞれの思惑が複雑に絡み合い、やがて「保元の乱」という朝廷全体を巻き込んだ内乱へと進んでいった。
●讃岐での配流生活の中で
結局、崇徳帝側は敗北し、讃岐(香川県)へと流される。この地で崇徳帝は京への帰還を願い、また亡き父・鳥羽帝へ別れの挨拶もさせてもらえなかった悲しみも抱え、五部大乗経をしたためた。一説には自らの血で写経したとも言われている。これを京の寺へ納めてほしいと朝廷に送るも、後白河帝は「呪詛が込められているかも」とそのまま突き返してしまう。この写本を戻された瞬間から崇徳帝は怨霊への道を歩み始めた。