ちなみに、現在祇園の歌舞練場裏にある崇徳天皇御廟は、崇徳帝の寵妃・阿波内侍が遺髪を祭り、菩提を弔ったものが元だとか。今は京都の御廟はここだけとなっている。

 そして、以後100年ごとに式年祭が執り行われ、700年式年祭はちょうど幕末動乱の時期にあたったことから、時の孝明天皇は大きな災いが起こることを恐れ、讃岐から京都へ崇徳帝を還御させて祭ることを決めた。実際には、孝明天皇はお宮の完成前に崩御、明治天皇が建立を引き継ぐ。これが現在、京都にある白峯神宮だ。もちろん1964(昭和39)年、白峯御陵で行われた800年式年祭へも天皇の勅使が出向いた。

 考えてみれば、武士という民が天下を取り続け、700年後にようやく帝は表舞台へ戻ってきたのだ。崇徳天皇の呪いは解けたのか。

「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」小倉百人一首にあるこの歌は、崇徳帝のものである。保元の乱以前の崇徳帝は、和歌に精通した柔らかな人物だったのだ。そんな人物が800年過ぎても怨霊として恐れられたかっただろうか。

 現在、京都の白峯神宮は、主にサッカーなどの球技上達の神さまとして、若者に人気のお宮となった。数十年前までは、前を通るだけでも社へお辞儀をしていたという京都人の話からは隔世の感がある。けれども、もしかしたら崇徳帝はこのような賑やかにお参りしてくれる参拝者の方が好きかもしれない。少なくとも、今はもう誰も崇徳帝に仇(あだ)をなす人はいないのだから。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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