1960年代は高度経済成長の時代であった。このため、輸送需要が大幅に増加したが、増発した車両に対応する車両基地が不足するという問題が表面化していた。そのうえで、車両の製造コストにも限りがあり、少ない車両で多くの輸送需要に応える必要があった。
こうした中で「昼間は昼行列車、夜は別の夜行列車」として運行できる車両を作れば、1編成で2本の列車が運行できるため、上記の問題を解決できるというアイデアが具体化した。当初、この寝台電車は急行列車として想定された。しかし、151系「こだま」型などの特急形電車における居住性が歓迎されていたことと、特急列車にしなければ想定している運行区間での列車折り返し時間が確保できないことから、特急列車に変更された。
実際のダイヤでは、例えば博多駅を19時45分に出発した寝台特急「月光」は新大阪駅に5時45分に到着した。車両基地で寝台を座席に転換し、新大阪駅発9時30分の昼行特急「みどり」となって、来た道を昼間に折り返したのである。
急行列車で想定された時期は、側廊下式で枕木方向に3段寝台が伸びる、開放型寝台車の居住性を改善して昼間運行するという構想だった。特急列車に変更されたことで、より高い居住性が求められた。1960年代における特急列車は、ほぼ例外なく長大編成で長距離運転を行い、1等車(1969年よりグリーン車)や食堂車も連結された運行地域の看板列車であり、一定の格式を求められる存在であったからだ。
■急行1等車並みの居住性だった、昼間状態の2等車
昼間の居住性を重視したことで、寝台電車は当時の開放型1等寝台車(1969年よりA寝台車)と同じ、中央通路で左右に向かい合わせ座席が配置されたプルマン式寝台となった。
これは向かい合わせ座席の背もたれを分割して、座面に移動させて下段寝台を作り、その上に昼間は折りたたまれていた中段寝台と上段寝台を展開するという構造である。
結果として、583系の居住性は登場時においてトップクラスのものとなった。583系2等座席車(1969年より普通車)の昼行状態は向かい合わせ座席で、座席間隔は1900mmもあった。当時の代表的な特急形電車である485系電車の2等座席車が座席間隔910mmなので、向い合わせると1820mm、0系新幹線でも940mmなので同1880mmとなり、583系の方が広い。
583系登場当時、準急・急行列車として運行されていた、向かい合わせ式座席の1等座席車だった80系300番台の座席間隔は1910mmなので、583系2等座席車は、9年前に製造された1等座席車並みの居住性を有していたことになる。
筆者は583系普通車に座ったことがあるが、適度な傾斜のある背もたれや、深い座面の座席に好印象を持った。テーブルは座席間の窓側と、通路側肘掛けの両方に設けられており、同時期の昼行専用特急形電車である485系2等座席車にも劣らない居住性である。
しかし、座席間隔が広いとはいえ、向かい合わせ座席であり、満席の場合は(当時の特急は非常に乗車率が高い)乗客の半数が後ろ向きに座ることになる欠点も実感した。