「サソリをスカされて少し戸惑ったけど、やっぱり奴は身体が柔らかいんだね」
長州が感心したサソリ返しではあったが、全体的には消化不良感が漂った。
最後はサソリにギブアップしないとみるや自ら技をほどいた長州は、ロープへ走ってのリキラリアット。完璧な3カウントが入った。
「せっかく良いソバットが入ったのに……」
自ら手応えを感じ、長州も認めた打撃系こそ通用したが、完敗に近い印象も残った。
「これで良い目標ができた」
タイガーは試合後に語った。ジュニアではなく、ヘビーへの本格的な転向を決意させたきっかけの1つではなかろうか。
マスクマンとしての限界を感じたタイガーは、数年のちの90年5月14日、試合中に自らマスクを脱いで素顔の三沢となった。その後の活躍ぶりは言うまでもない。そういった意味で三沢、そして日本マット界にとってエポックメーキングな試合だったと思わせる、長州vs三沢タイガー戦だった。
全日本参戦当時のジャパンプロレス設立から同団体離脱、全日本との契約解除。のちの新日本復帰から新団体WJ立ち上げも短期間で崩壊。波乱万丈のレスラー人生だった。その過程で自らのスタイル、やりたいことを貫くため、多くのものを犠牲にしてきた。それまでのプロレス界の習慣やしきたりも破ってきた。
「革命戦士」
この言葉は長州のファイトスタイルだけでなく、生き方にも当てはまる。長州のことを、よく思わない関係者がいるのはそのためだ。誤解を恐れずに言えば、仁義を重視してきたジャイアント馬場、その直系である三沢との絡みが途絶えた理由もそのあたりか。
「お前らは噛みつかないのか!今しかないぞ俺たちがやるのは」
「プロレス界には非常ベルが鳴っている」
「ど真ん中に立ったんだぞ、今」
節目節目でプロレス史に残る言葉を吐き出したのも、記憶から離れない。長年、プロレスファンを楽しませてくれたのは間違いない。
近年ではモノマネされたり、バラエティ番組で見かける機会も多かった。しかし「最も近寄りがたく恐いレスラー」として、関係者やファンには常に恐れられていた。
長州力、この男は本物のプロレスラーだった。
リング内外で強烈な存在感を残し続けてきたレスラー人生に幕が降りた。(文・山岡則夫)
●プロフィール
山岡則夫
1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌『Ballpark Time!』を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、編集・製作するほか、多くの雑誌、書籍やホームページ等に寄稿している。Ballpark Time!オフィシャルページにて取材日記を不定期に更新中。現在の肩書きはスポーツスペクテイター。