ビートたけし (c)朝日新聞社
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 平成の歴史を振り返ってみると、お笑い界でも全国民が注目するような衝撃的なニュースがいくつかあった。中でも多くの人の印象に残っていると思われるのが、1994年に起こったビートたけしのバイク事故である。

 8月2日午前1時37分、新宿区南元町の都道でミニバイクを運転していたビートたけしは、右カーブを曲がり切れずにガードレールに接触転倒した。病院に運ばれ、右側頭部頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、右頬骨複雑骨折で長期入院が必要と診断された。

 事故直後、ビートたけしの弟子の1人である負古太郎(まけふるたろう)は、たけしが事故を起こして東京医科大学病院に運び込まれたと警察から連絡を受けていた。すぐに警察署に駆けつけた負は、そのことで事情聴取を受けた。四谷警察署の取調室では警察官から「脳味噌、陥没だ。よくても植物人間だぞ」と告げられたという(ビートたけし著『顔面麻痺』(太田出版)より)。

 ビートたけしがバイク事故を起こして入院したというニュースは日本中に衝撃を与えた。当時のたけしは今と同様にテレビ界のトップスターだった。ゴールデンタイムを中心に多数のレギュラー番組を持ち、いずれも高い視聴率を保っていた。

 のちに明らかになることだが、たけしは酒を飲んでバイクを運転していた。記憶が途切れていて、事故の前後のことは全く覚えていなかった。たけしはのちにこのときのことを振り返り「自殺のようなものだったのかもしれない」と語っている。

 バイク事故前、たけしは密かに苛立っていた。『平成教育委員会』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『世界まる見え!テレビ特捜部』『ビートたけしのTVタックル』など、レギュラー番組はどれも軌道に乗っていて順調だったのだが、40代後半を迎えたたけし自身は、芸人としての自らの衰えに自覚的だった。

 若い頃だったら口をついて出ていた人名などの固有名詞が出てこなくなっていた。ここでこの人をあの有名人に例えたら笑いが取れるのに、その言葉が出てこない、というようなことが続いた。そのことがたけしを苛立たせていた。

 1989年公開の『その男、凶暴につき』で映画監督業を始めた彼は、そこから本格的に映画製作にのめり込んでいった。1993年公開の『ソナチネ』は自信作だったのだが、配給会社には全く評価されず、十分な宣伝も行われなかった。客入りは芳しくなく、公開からわずか2週間で打ち切りになった。手応えがあった映画だったのに、それが世間に伝わらず、誰からも認められない。もどかしさと苛立ちが募るばかりだった。

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ラリー遠田

ラリー遠田

ラリー遠田(らりー・とおだ)/作家・お笑い評論家。お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』 (イースト新書)など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)。http://owa-writer.com/

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