もちろんそれも非難するに当たらないことだと思う。が、先週、毎日新聞に掲載された元「DAYS JAPAN」編集部に在籍した女性の手記を読んで、複雑な思いに駆られた。そこには編集部の壮絶で過酷な労働条件が記されており、そうしたスタッフの犠牲の上に南仏の写真祭へのイベントスポンサー費用や彼の写真集の費用が捻出されていたのかと思ったからだ。さらに、手記には、広河氏がスタッフを罵倒することで精神的に追い込み、意のままに操ろうとする情景も描かれている。悲しかったのは、彼女は肉体的にも精神的にも病んで、結局はジャーナリストになる夢を捨てざるを得なかったことだ。

 広河氏はフォトジャーナリズム講座を主催していた。その宣伝文の中に、「志を学ぶ」という科目があって不思議に思った。「志」は自らの内に湧き出るもので人から教えられるものではないと私は思っているからだ。自分のさまざまな経験からジャーナリストとしての骨格が作られるはずで、その道を誰かに指し示してもらうことも指し示すこともできないはずだ。もし、人の指示で動くなら、その人のコピーになってしまうではないか。

 しかし、そういう私もそう気付くまでには随分と時間がかかった。たくさんの失敗と経験を重ね、やっと自分の写真の道が見えてくるようになった。世の矛盾に怒りを感じ、それを正したいと願う若者。まだ経験が少なく見える世界が限られた若者たちは、正義を実践する広河氏に自らのヒーロー像を重ね合わせたのかもしれない。そのように集まってきた聴講生やボランティアに対し、羽ばたく手助けをするよりも、氏は自らの欲望の対象と見てきたのだろうか。雑誌と自らを権威づけることで人を集め、自分の欲望を満たそうとしてきたのかもしれない。 

■現場でこそ、磨かれる

 ジャーナリストは自らが権威を作り上げたり、その中で独裁を敷くのではなく、権力者が唱える口触りのいい正義や民主主義の裏にあるものを暴くことこそ、その真骨頂なのではないだろうか。そして、作り上げた権威に寄りかかるのではなく、伝えたい本当のことを世に問い、それで評価されるべきものだと思う。

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