「おじいさんと勘三郎さんのお父さん、すなわち十七代中村勘三郎さんが仲良しで、おじいさんは息子で(2012年に亡くなった)勘三郎さんのことを目にかけていたそうです。そんな流れがあったからか、勘三郎さんは僕に何でも教えてくださいました。よく言われたのが『やりたいことをやりなさい。そして、やろうと思っていることは口にしなさい』ということでした。口にすることで意識も高まるし、自分に逃げ場を与えないことにもなると」
子役から始まった俳優業は16歳で一旦休止。関西大学卒業後の2009年から活動を再開し、青年座研究室へ入所する。フジテレビ系ドラマ「赤い糸の女」(12年)ではヒロイン三倉茉奈の恋人役を務めたりもしたが、13年からは祖父と同じ松竹新喜劇の舞台に立っている。
「お芝居を学べば学ぶほど、おじいさんがやっていた松竹新喜劇の凄味が分かってくる。自分の中に、松竹新喜劇に入りたいという思いが生まれ始め、もちろん、大変なことだとは分かりつつも『やりたいことをやろう』と思ったんです」
残念ながら、松竹新喜劇の舞台に立つ姿を見ることなく、勘三郎さんは旅立ってしまったが、それも逆に自分へのメッセージにも思えるという。
「もう、勘三郎さんはいらっしゃらない。ただ、いらっしゃらないというのも、ある意味、最高の教えなのかと思います。何もお尋ねできない、見ていただくこともできない。それならば、もう、こちらはがむしゃらに頑張るしかないですから」
実際、出始めの頃は四苦八苦する姿も多々見られた。喜劇という極めて難易度の高い芝居の中でいきなり大役を与えられ、なかなか力がついていかない。渋谷天外ら達者な共演者に助けられているところも、正直見受けられたが、作品ごとに進歩し、すさまじいスピードで喜劇役者としての階段を駆け上がっている。
2016年、寛美さんの二十七回忌の追善公演を前に話を聞いた時には熱い思いも語っていた。
「亡くなってからこれだけ時間が経つのに、追善公演がやれる。そして、お客さまが来てくださる。その時点で、すごい人やと思います。僕らはいくらやりたいといっても、それを見たいと思ってくださる方々がいらっしゃらなかったら存在しない商売。見たいと思ってもらい続けるように、今度は僕らがやらなアカンと強く思っています」
朝ドラで一回りも、二回りも大きくなった扇治郎が、次、ホームグラウンドでどんな芝居を見せるのか。楽しみでならない。(芸能記者・中西正男)