『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析する。今回は米国初代大統領のジョージ・ワシントンだ。
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「沈黙は金なり」という言葉がある。あるいは「サイレント・ネイビー」たれと戦中派だった亡き父に、いつも一言多い筆者はたしなめられた。帝国陸軍と国粋主義者に黙っていたから三国同盟・日米開戦になったのではないかと反論したかったが、父には頭が上がらなかった。医学部を卒業して米国に渡り研究生活に入ると、かの地では臨床の場でも研究の場でも、言うべきことを必要かつ最小限の言葉で的確に同僚や研究相手に説明できないと相手にされなかった。これは学問以外の場でも同じことで、米国政治のトップに立つ大統領は、いずれも雄弁である。もっとも、当代のトランプ氏は若干口がなめらかすぎるような気もする。
さて、米国歴代の大統領の中で最も演説が下手だったのは、初代大統領ジョージ・ワシントンであるといわれる。
彼は、1732年2月22日、英国植民地だったバージニア北部ウェストモアランド郡コロニアル・ビーチに生まれた。生家は農場と鉱山開発を営む中流家庭で、父オーガスティンはイングランドから身一つで新世界に入植して財を成した立志伝中の人だった。ちなみに、悪戯で桜の木を切った幼いワシントンが正直に父に謝って逆に褒められたという有名な逸話はこのころのことらしいが、この話は19世紀末にウイームスという地域牧師の作り話だそうである。アメリカンドリームを実現した父は、過労がたたってワシントンが11歳の時に死去、その後は14歳年長の長兄に育てられた。ただ、この兄も天然痘で死去してしまう。ワシントンは親兄弟の遺産を相続してかなり大きな農園主となり、併せて植民地軍の士官となった。初陣はフランス軍を排除するためのフレンチ・インディアン戦争だった。
退役後は裕福な未亡人と結婚して資産を増し、農場を拡大し地方政府の役職にもついた。体制派の地方議員だったが、1776年、トマス・ペインの「コモン・センス」に触発されて、イギリスからの独立を決意、レキシントン・コンコードの戦いの後に植民地軍総司令官に就任、アメリカ独立戦争を指導した。一進一退の激戦の末、独立を達成、陸軍最高司令官の辞任を申請したが、逆に議会から初代大統領に指名される。国務長官にトマス・ジェファーソン、財務長官にアレクサンダー・ハミルトンを任命、米国国家の基礎を築き2期8年の大統領を務めた。引退後はマウントバーノンの農場にこもり、妻と余生を楽しんだという。