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今年は明治維新から150年目。明治のはじまりは、改元をした1868年10月23日(旧暦9月8日)だが、維新の始まりは前年の大政奉還などの改革期からと考えられている。この芽は、俗に言う黒船来航──つまりアメリカ海軍のペリーが日本との和親条約締結を求めて来日したところにあり、このペリー来航以降を幕末と呼んでいる。
【世界遺産にもなった吉田松陰の「松下村塾」や終焉之地などはこちら】
●ペリーなかりせば、松陰は長生きだったか?
ちなみに、ペリー以前にも多くの外国船が日本にやってきている。未だに江戸時代に交易が許されていたのは西欧の中ではオランダのみと考えられている向きも多いが、よく考えれば江戸時代半ばにオランダはフランスに占領され、本来の王家が復権したのは1813年、その間に来航していたのはオランダ国旗を揚げた他国の船だったのである。しかるにペリー以前にもアメリカの船は何隻もやってきていた。
にもかかわらずペリーの来航が、これほどまでに幕府に動揺を与えた理由はさまざまだが、日本人が初めて目にする蒸気船の威力は大きかったらしい。この船で密航を企て捕まったのが、24歳の時の吉田松陰である。この時までに長崎、平戸などでオランダ船に乗り込んだり、ロシア船の出没地域を巡っていた松陰の目にも、蒸気船は別格に写ったようだ。
●わずか2年で傑出の政治家を育成
吉田松陰は、密航の罪で投獄されたのちに祖国・長州藩萩で幽囚の身となった。やがて自宅幽閉となった頃から、自宅で講義を開始、やがて叔父の塾・松下村塾を引き継いで多くの人物と交わって行く。塾生には久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、木戸孝充、山田顕義、品川弥二郎、野村靖、山県有朋、伊藤博文、境二郎、飯田吉次郎、河北義次郎など幕末・明治期にその名を知られた人物がずらりと並ぶ。
実は松陰が講義を行ったのはわずか2年あまり。最後は幕府の条約締結に反対する人々を弾圧し100名以上を罪に問うた安政の大獄に連座させられ、安政6年10月27日(新暦1859年11月21日)江戸の伝馬町へと身柄を移され牢屋敷で斬首されるのである。