東日本大震災の被害から修復された旧「常盤橋」は4月から通行が可能となる。日本橋川の対岸に常盤橋御門跡や常盤橋公園が所在する。画面左奥に下流に隣接する常盤橋が見える。(撮影/諸河久:2021年2月5日)
東日本大震災の被害から修復された旧「常盤橋」は4月から通行が可能となる。日本橋川の対岸に常盤橋御門跡や常盤橋公園が所在する。画面左奥に下流に隣接する常盤橋が見える。(撮影/諸河久:2021年2月5日)

日本橋川に架けられた三本の「常盤橋」

 次のカットは、日銀前の西側に隣接する日本橋川に架橋された石造り2連アーチの常盤橋。1877年に竣工した都内で最古の石橋で、関東大震災にも耐えたレジェンドだ。前述の復旧工事が近く完成し、歩行者道路として通行が可能になる。現在、画面右端の千代田区側に所在する常盤橋御門跡や常盤橋公園を包括した千代田区の整備事業が行われている。余談であるが、常盤橋公園には今年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の銅像が建立されている。

 関東大震災後の復興計画で、手狭になった常盤橋の約70m下流にコンクリートアーチ構造の「常盤橋」が1926年に架橋された。双方とも常盤橋を名乗っているが、明治期の石橋を旧常盤橋と呼んで区別している。
 

江戸通りに敷設された室町線を走る31系統三ノ輪橋行きの都電。画面右奥が架け替え前の新常盤橋。日本橋川の上空の視界は、この時代から首都高速道路に遮られていた。画面左側が国鉄日本橋橋梁で、橋上には東海道本線に運用される153系電車が留置され、青帯を巻いた1等車の存在が時代を語ってくれる。丸ノ内一丁目~新常盤橋 (撮影/諸河久:1965年10月24日)
江戸通りに敷設された室町線を走る31系統三ノ輪橋行きの都電。画面右奥が架け替え前の新常盤橋。日本橋川の上空の視界は、この時代から首都高速道路に遮られていた。画面左側が国鉄日本橋橋梁で、橋上には東海道本線に運用される153系電車が留置され、青帯を巻いた1等車の存在が時代を語ってくれる。丸ノ内一丁目~新常盤橋 (撮影/諸河久:1965年10月24日)

 次のカットが旧常盤橋の約100m上流に架けられた「新常盤橋」に向かう31系統三ノ輪橋行きの都電。新常盤橋は、それまで室町線(浅草橋~常盤橋)の終点だった常盤橋から日本橋川を渡って丸ノ内一丁目方向に路線を延伸するために架橋された。日本橋川に架かる二番目の常盤橋として「新常盤橋」と命名され、1920年に竣工している。鉄筋コンクリートアーチ構造で、画面右奥の中央区側には石造りの橋柱が写っている。常盤橋停留所は室町線の延伸開業時に新常盤橋停留所に改称された。
 

1988年に架け替えられた新常盤橋の近景。江戸通りも拡幅され、都電時代の面影は失われた。画面右奥の建物はビジネスホテルの「京王プレッソイン大手町」で、新常盤橋交差点角に2005年にオープンしている。(撮影/諸河久:2021年2月5日)
1988年に架け替えられた新常盤橋の近景。江戸通りも拡幅され、都電時代の面影は失われた。画面右奥の建物はビジネスホテルの「京王プレッソイン大手町」で、新常盤橋交差点角に2005年にオープンしている。(撮影/諸河久:2021年2月5日)

 最後に新常盤橋の近景も紹介しよう。旧景の新常盤橋は1988年に箱桁構造の新橋に架け替えられた。JRの日本橋橋梁も東北新幹線の開業によって大幅に改築されており、カメラを構えると、上部だけ見えるE5系のグリーンの車体が東京駅に向かって走り去った。画面手前の拡幅された江戸通りの真下には東京~錦糸町を結ぶ総武快速線の地下トンネルが通っている。

 外堀通りを走った17系統は1968年3月に池袋駅前~文京区役所前に運転短縮され、土橋線が廃止されたため、日本銀行本店前を走る光景が見られなくなった。いっぽう、新常盤橋を渡り都庁前に通っていた31系統は1969年10月に廃止され、オフィス街の本石町周辺から都電が消え去った。
 
■撮影:1967年9月19日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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