秋の陽が西に傾き日出通りは“日没通り”に。40パーミルの小篠坂を力走する17系統池袋駅前行き7000型。護国寺前~大塚坂下町(撮影/諸河久:1965年11月18日)
秋の陽が西に傾き日出通りは“日没通り”に。40パーミルの小篠坂を力走する17系統池袋駅前行き7000型。護国寺前~大塚坂下町(撮影/諸河久:1965年11月18日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は文京区・護国寺から小篠坂(こざさざか)を上り池袋駅前に向かう都電だ。

【55年が経過した現在は激変!? いまの同じ場所の写真や当時の貴重な別カットはこちら(計4枚)】

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 本に関わる仕事をしたことがある人なら、「護国寺」と聞くと講談社などの出版社を思い浮かべるかもしれない。付近には、お茶の水女子大学しかり、幼稚園から大学まで学校が多く、学生が多い街でもある。

 そして、坂が多い。

 冒頭の写真を見てほしい。17系統の都電が護国寺前から右にカーブを切って、護国寺の墓所を右に見ながら小篠坂を上って行くシーンだ。その昔、付近一帯が笹薮であったところからこの名がついたといわれ、小笹坂とも呼ばれる。

 隣接する大塚坂下町(後年大塚六丁目に改称)までは、40パーミルの上り勾配が続いている。都電が走る日出(ひので)通りは護国寺の仁王門に隣接する日本大学豊山中学校・高等学校の通学路となっている。

 この写真を見た日大豊山校出身で、日大OBの同輩は「体育の時間になると護国寺の広い墓地内をマラソンさせられ、この小篠坂を駆け下って帰校したものだ。ラストの区間が上り坂じゃなくて、下りで良かったよ」と在校中のエピソードを語ってくれた。

首都高速5号池袋線の開通で上空に蓋をされた日出通り。背景中央の白い建物が区立青柳小学校の校舎で、その背後に日大豊山校の校舎が聳える半世紀後の近景(撮影/諸河久)
首都高速5号池袋線の開通で上空に蓋をされた日出通り。背景中央の白い建物が区立青柳小学校の校舎で、その背後に日大豊山校の校舎が聳える半世紀後の近景(撮影/諸河久)

 次の写真が、半世紀ぶりに訪れた小篠坂の近景だ。首都高速5号池袋線の高架橋が上空を覆っていた。旧景の日出通りはネットフェンスの向こう側で、当時と同じ場所からの撮影は不可能だった。

 やはり日大豊山校出身の後輩は「電車道であった日出通りに並行して首都高速道路5号池袋線の工事が進捗してきた時代、都電の軌道は仮の専用軌道に移設されていた」と語ってくれた。都電池袋線の廃止が1969年10月で、首都高速5号線は同年12月に護国寺~北池袋が開通しているから、都電路線廃止時に仮の軌道が復旧されたか否か、気になるところだ。

■軌道は戦時下の物資不足で調達

 護国寺前はその名のとおり「真言宗豊山派大本山護国寺」の門前町である。護国寺は五代徳川将軍綱吉が天和元(1681)年、生母桂昌院の発願により建立された古刹(こさつ)だ。この門前に御殿女中の「音羽」と「青柳」を住まわせたことに因んで、音羽町と東西青柳町の地名になった。1966年の町名改正で音羽町は音羽になり、東西の青柳町は名称が廃止されて、区立青柳小学校にその名を残している。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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戦争で軌道が調達される