「都電よごくろうさまでした」の看板が見える千住四丁目終点は日光街道を上る自動車洪水の中。21系統の都電の脇に止まるのは「トヨペットクラウン」MS50系ワゴンといすゞ「ベレット」。その背後が日野自動車の初期キャブオーバートラックTC30系(撮影/諸河久:1968年1月23日)
「都電よごくろうさまでした」の看板が見える千住四丁目終点は日光街道を上る自動車洪水の中。21系統の都電の脇に止まるのは「トヨペットクラウン」MS50系ワゴンといすゞ「ベレット」。その背後が日野自動車の初期キャブオーバートラックTC30系(撮影/諸河久:1968年1月23日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。東京から各地を結ぶ街道は、中央区日本橋を起点として放射状に広がっていた。今回は日光街道の終点「千住四丁目」と中山道の終点「志村橋」、それに清洲橋通りの終点「葛西橋」の都電風情を点描してみよう。

【現在の同じ場所はどれだけ変わった!? 本文中の葛西橋、志村橋などの貴重な写真はこちら(全6枚)】

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■昔の街並みが消え去った北千住終点

 北千住線は千住大橋~千住四丁目1900mを結ぶ路線で、日光街道(国道4号線)に敷設され、1928年7月から運行されていた。当初の29系統(千住四丁目~土州橋)から22系統になり、戦後は21系統として千住四丁目~水天宮前を結んでいた。

 江戸期の千住は品川、内藤新宿、板橋と同じ江戸四宿の一つで掃部宿(かもんじゅく)とも呼ばれ、独特の文化圏を形成していた。

 都電が走っていた昭和の時代は高速道路網が未整備で、都電終点の北側に位置する千住新橋は自動車交通の難所だった。現在は首都高速や東北自動車道が整備され、千住新橋の架け替えも完了して道幅が広がるなど、当時の大渋滞は大幅に緩和されている。

 旧景は北千住線が廃止される前日の撮影で、商店街のアーケードには「都電よごくろうさまでした」の横看板が掲出されていた。この21系統は1968年2月25日から三ノ輪橋~水天宮前に運転短縮され、1969年10月25日に全線が廃止されている。

都電終点で繁盛していた商店街はいずこへ。拡幅された日光街道と高層マンションが林立する千住四丁目終点跡。(撮影/諸河久:2019年9月30日)
都電終点で繁盛していた商店街はいずこへ。拡幅された日光街道と高層マンションが林立する千住四丁目終点跡。(撮影/諸河久:2019年9月30日)

 千住四丁目終点跡は大変貌していた。1973年には千住大川町横断歩道橋が竣工。1980年代に入ると道路拡幅工事が始まり、画面右側の街並みがセットバックされた。画面左側には、当時の家並が少しは残っていると思っていたが、高層マンション群が建ち並び、都電惜別の看板が掲げられた往年の商店街は消滅していた。

■三軒家と呼ばれていた新河岸川畔の志村橋終点。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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昔の地名が引き継がれ…