低い家並が続く志村橋終点を発車して巣鴨(巣鴨車庫前)に向かう41系統の都電。(撮影/諸河久:1964年4月5日)
低い家並が続く志村橋終点を発車して巣鴨(巣鴨車庫前)に向かう41系統の都電。(撮影/諸河久:1964年4月5日)

 都電41系統(志村橋~巣鴨駅前)は都電最後の新設系統だった。中山道(国道17号線)に敷設された志村線は、志村坂上から志村橋まで1900mの軌道延伸工事が1955年6月に完成。41系統として運行を開始している。1966年の路線廃止まで僅か11年であったが、延伸に力を注いだ沿線住民から愛された系統だった。

 志村橋の停留所名は、すぐ北側を流れる新河岸川に架かる「志村橋」から命名された。往年の新河岸川は物資輸送の重要な水路で、江戸と川越城下を結んでいた。この界隈はその当時、酒屋、農家、舟戸の渡しの家屋が三軒あったところから「三軒家」と呼ばれていた。1964年の訪問時、志村橋終点から中山道の南西側に「三軒家百貨店」屋号で食料品店が盛業しており、昔の地名が引き継がれていた。

当時の雰囲気が残る現在の志村橋終点跡。旧景左端の「志村橋外科医院」は介護施設「メイプルヴィラそよ風」に変わっている。(撮影/諸河久:2019年9月30日)
当時の雰囲気が残る現在の志村橋終点跡。旧景左端の「志村橋外科医院」は介護施設「メイプルヴィラそよ風」に変わっている。(撮影/諸河久:2019年9月30日)

 志村橋終点跡に来てみると、旧停留所は周囲の雰囲気でそれとなく推測できた。旧景に写っている「志村橋外科」の動静が気になり、近隣の「錦寿司」でお話を伺えた。ご主人から、志村橋外科医院は介護施設に建て替わったことを教えていただいた。この建物を画面左端に入れて定点を割り出せた。画面右端の工事現場では「警視庁志村警察署」の新庁舎の建設が進められていた。

生活感溢れる葛西橋終点で折返しを待つ錦糸堀行き29系統の都電。旧葛西橋界隈はハゼ釣り客で賑わったという。(撮影/諸河久:1965年12月9日)
生活感溢れる葛西橋終点で折返しを待つ錦糸堀行き29系統の都電。旧葛西橋界隈はハゼ釣り客で賑わったという。(撮影/諸河久:1965年12月9日)

■葛西橋終点「都電に揺られてハゼ釣り詣」

 清洲橋通りに葛西橋線が敷設されたのは、戦時中の1944年5月だった。城東電気軌道から引き継いだ砂町線の境川から葛西橋に至る1300mの新設路線で、沿線の軍事工場へ通う通勤者の便をはかるため、資材不足を克服して延伸された。

 当初は41系統(葛西橋~錦糸堀)で運転され、戦後の1947年から29系統(葛西橋~須田町)になった。朝夕の通勤時には境川を左折して日本橋に向かう臨時便も運転された。

 葛西橋停留所の先を道なりに300mほど進むと、1928年に竣工した荒川放水路に架かる旧葛西橋があった。往時は路線バスも通行する片側一車線の木橋脚・鉄製桁の橋で、300m下流に現在の葛西橋が完成した1963年まで使用されていた。

 旧葛西橋界隈はハゼ釣りの名所で、シーズンともなれば橋上に釣り人が絶えなかったという。橋詰には多くの釣具屋や船宿が盛業していた。

 1965年に撮影した葛西橋の終点風景を観察すると、周辺には多くの商店や飲食店が軒を連ね、生活感に溢れる終点だった。発車待ちしている29系統の都電は、途中の錦糸堀車庫行の方向幕を掲示している。軌道の途切れた先に城東警察署葛西橋西派出所(現在は旧葛西橋交差点角に移転)の建物があった。

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