自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久:1968年9月28日)
自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久:1968年9月28日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は主要道路が交差する飯田橋交差点を走る都電だ。

【現在の飯田橋駅前はどれだけ変わった!? いまの光景や当時の別カットはこちら】

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 坂道と石畳の狭い路地にどこか風情を感じる神楽坂。花街として栄えるこの地に飯田橋はほど近い。それもあってか、飯田橋は日中のオフィス街としての顔だけでなく、夜も一献交わしたくなるような飲食店が軒を連ねている。

 JR飯田橋駅前の北西側に位置する飯田橋交差点は、目白通りと外濠通り、それに大久保通りが合流する五差路の交差点で、朝夕のラッシュ時には自動車交通の隘路(あいろ)となっている。交差点にかかる「巨大」ともいえる横断歩道橋を思い出す読者も多いのではないだろうか。

筆者の立ち位置は新宿区下宮比町(しもみやびちょう)で、横断歩道橋の上から飯田橋交差点を俯瞰した。画面中央のJR飯田橋駅の背後は高層ビル群が林立する千代田区飯田町になる(撮影/諸河久:2019年6月11日)
筆者の立ち位置は新宿区下宮比町(しもみやびちょう)で、横断歩道橋の上から飯田橋交差点を俯瞰した。画面中央のJR飯田橋駅の背後は高層ビル群が林立する千代田区飯田町になる(撮影/諸河久:2019年6月11日)

 いっぽう、飯田橋駅を巡る鉄道網はJR中央線・総武線(各駅停車)を始めとして、東京メトロ東西線・有楽町線、南北線、都営地下鉄大江戸線の五線が数えられ、多くの乗降客が利用する乗換駅としても賑わっている。ただ、駅が離れている路線もあり、乗換えとはいえ、かなり歩かなければならないのも飯田橋駅の特徴といえよう。

 半世紀前の1960年代、飯田橋交差点には多くの都電系統が行き交っていた。目白通りに敷設された江戸川線は15系統(高田馬場駅前~茅場町)、外濠通りを水道橋方面から来て、大久保通りに入る御茶ノ水線・角筈線は13系統(新宿駅前~水天宮前)、外濠通りの飯田橋交差点西側で折り返す牛込線に3系統(品川駅前~飯田橋)が、それぞれ走っていた。現在の地下鉄網と比較しても見劣りしない路面電車のネットワークだった。

■学生運動の影響を受けた「さよなら装飾電車」

 1963年の杉並線廃止以来、都電路線の廃止時は「ながい間ご愛用ありがとうございました」などの横幕を掲げた「お別れ装飾電車」が運転されるのが常であった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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