旧数寄屋橋の跡に架設された新数寄屋橋をくぐって、日比谷公園に向う9系統渋谷駅前行きの都電。左端が1933年に建てられた円形の「日本劇場」。隣接するフィンガーウインドーが美しい「朝日新聞社」本社屋は1927年に竣工している。数寄屋橋~日比谷公園(撮影/諸河久:1964年12月21日)
旧数寄屋橋の跡に架設された新数寄屋橋をくぐって、日比谷公園に向う9系統渋谷駅前行きの都電。左端が1933年に建てられた円形の「日本劇場」。隣接するフィンガーウインドーが美しい「朝日新聞社」本社屋は1927年に竣工している。数寄屋橋~日比谷公園(撮影/諸河久:1964年12月21日)

 都電の背景にはネオンが灯された有名店舗が林立する。左側手前から「不二家」「アメリカ屋靴店」「富士銀行数寄屋橋支店」「モトキ」「天賞堂」「亀八寿司」「近鉄飯店」「和光本館」と続く。右側には「スキヤカメラ」「ニュー銀座千疋屋」「日本勧業銀行」「イエナ」「近藤書店」「ビアホール・ミュンヘン」「三愛」など、昭和の時代がここにあった。

 この晴海通りに路面電車が走ったのは1903年で、東京市街鉄道が敷設した築地線だ。当初は旧線で運転されていたが、高架線で建設された国鉄(現JR)山手線との立体交差工事で、日比谷公園と数寄屋橋を直線で結ぶルートに変更されたのは1910年頃だった。

日本劇場と朝日新聞社の跡地には、複合商業施設「有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)」が1984年に建設された。中央奥には建て替えられた「銀座教会」の尖塔と十字架が写っている(撮影/諸河久:2019年5月18日)
日本劇場と朝日新聞社の跡地には、複合商業施設「有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)」が1984年に建設された。中央奥には建て替えられた「銀座教会」の尖塔と十字架が写っている(撮影/諸河久:2019年5月18日)

 1936年に数寄屋橋を渡り築地線を走った市電は、4系統(五反田駅前~築地)、9系統(渋谷駅前~両国)、11系統(新宿駅前~築地)の三系統だった。戦後になって8系統(中目黒~築地)、9系統(渋谷駅前~浜町中の橋)、11系統(新宿駅前~月島)の三系統に改編された。 1967年12月で8系統、1968年2月に11系統が廃止された。1967年12月から、運転区間を渋谷駅前~新佃島に変更して残存していた9系統も1968年9月に廃止され、数寄屋橋界隈だけではなく「銀座」全域から都電の姿が消えた。

■数寄屋橋停留所の真下に西銀座駅

 数寄屋橋交差点で晴海通りと交わる外濠通りの都電を撮影した別カットは、池袋駅前からやってきた17系統が終点の数寄屋橋停留所に到着するシーンだ。都電の真後ろに見える尖塔が「日本基督教団 銀座教会」で、その奥が「平和生命館」。共に戦前からの重厚な建築物で、平和生命館1階の「レバンテ」は牡蠣料理の美味しいビアレストランだった。(現在「東京国際フォーラム」に移転して盛業中)

外濠通りの数寄屋橋停留所に到着した17系統の都電。大正期、この一帯は西紺屋町と呼ばれ、後年西銀座→銀座と地名が変わった。右のビルに丸ノ内線・西銀座駅(撮影時は銀座に改称)に通じる出入口が見られる。(撮影/諸河久:1964年12月21日)
外濠通りの数寄屋橋停留所に到着した17系統の都電。大正期、この一帯は西紺屋町と呼ばれ、後年西銀座→銀座と地名が変わった。右のビルに丸ノ内線・西銀座駅(撮影時は銀座に改称)に通じる出入口が見られる。(撮影/諸河久:1964年12月21日)

 この数寄屋橋停留所の真下に、営団地下鉄(現東京メトロ)・丸ノ内線「西銀座駅」があった。西銀座駅は丸ノ内線が東京から延伸された1957年12月に開業した。翌1958年春、フランク永井の「西銀座駅前」が大ヒットした。日活からも今村昌平監督による同名の映画が封切られ、銀座でもマイナーだった西銀座の地名は一躍有名になった。

筆者が所蔵する「西銀座駅」の乗車券
筆者が所蔵する「西銀座駅」の乗車券

 歌詞に出てくる「メトロを降りて階段昇りゃ…」。階段の先の地上には、まさに数寄屋橋交差点を行き交う都電の姿があったのだ。1964年8月、日比谷線・霞ヶ関~東銀座開業と同時に、銀座線・丸ノ内線・日比谷線の三線を総括する銀座総合駅(銀座駅)が完成した。西銀座駅は丸ノ内線・銀座駅に改称され、西銀座の駅名は開業から7年で廃止された。

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日本中が熱狂した「君の名は」