梅雨の黄昏時、数寄屋橋を発車して板張りの晴海通りを築地終点に急ぐ8系統の都電。 数寄屋橋~銀座四丁目(撮影/諸河久:1964年6月28日)
梅雨の黄昏時、数寄屋橋を発車して板張りの晴海通りを築地終点に急ぐ8系統の都電。 数寄屋橋~銀座四丁目(撮影/諸河久:1964年6月28日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は数寄屋橋界隈を走った都電だ。

【55年が経過したいまの数寄屋橋はどれだけ変わった!? 現在の光景や当時の貴重な写真はこちら(計7枚)】

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 古くから「数寄屋橋」を知る人は、敷居の高い飲食店が軒を連ねる一角だったり、名だたる文豪が夜な夜な語らう「文壇バー」を思い浮かべたりするかもしれない。翻って若い世代には、銀座にも日比谷にも有楽町にも出やすい待ち合わせスポットとしての交差点のイメージが強いだろうか。そんな人と人が入り交じる場所が、数寄屋橋だ。

 以前に「川がないのに『橋』の地名が多い東京」という記事で「京橋」を取り上げたが、今回の数寄屋橋もまた、川がない。はるか昔に江戸城の外濠に数寄屋橋が架けられ、戦後までその風情を拝めたが、1958年高速道路の建設にともなって外濠は埋め立てられ、橋は消滅した。しかし、人々に愛された数寄屋橋という名称は、店名などで生きている。

 写真は数寄屋橋を発車して銀座四丁目に向かう8系統の都電を、続行する9系統水天宮浜町行き都電に乗車した筆者が、運転台越しに狙った一コマだ。梅雨時の銀座の街には黄昏が忍び寄り、ネオンが瞬いていた。フィルムのコニパンSSはISO100の感度だったから、絞りはf2.8、シャッタースピードは手持ちの限界に近い1/15秒にセットして撮影した記憶がある。前走する都電と筆者が乗る都電のスピードがほぼ同速度だったのが幸いして、被写体ブレすることなく雰囲気のある作品に仕上がった。ビギナーズ・ラックの一言に尽きよう。

来訪客で賑わう現在の数寄屋橋交差点。旧来からの建物は、銀座四丁目左角の「和光本館」と右角の「三愛ビル」
が残るのみだ(撮影/諸河久:2019年5月18日)
来訪客で賑わう現在の数寄屋橋交差点。旧来からの建物は、銀座四丁目左角の「和光本館」と右角の「三愛ビル」 が残るのみだ(撮影/諸河久:2019年5月18日)

 当時、営団地下鉄(現東京メトロ)・日比谷線の建設が佳境に入っており、晴海通り(都道304号線)はご覧のとおりの地下鉄工事のため板張りで、残土を搬出する櫓(やぐら)も酷く目障りだった。夜中には工事のため木材をいったん撤去、明け方にはまた木材を戻す日々だった。画面左隅には都電を待つ数人の女性が写っているが、彼女らの佇む安全地帯も木材を並べた仮設であった。

「東京オリンピック開催に間に合わせるために頑張ろう!」というスローガンが行き渡り、「天下の銀座」に搬出用櫓や板組の安全地帯がまかりとおるのが情けなく感じられる時勢だった。「高速道路や地下鉄などのインフラはオリンピック終了後にゆっくり造れば……」というのが筆者の心情だった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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活気あふれる昭和の数寄屋橋