近藤と大蔵は氷の斜面に無理やり張ったテントで夜を越し、山頂を目指した。だが荷揚げが間に合わず、ロープも酸素も足りていない。気温氷点下50度、チリ雪崩のなかふたりは北壁を8450メートルまで登攀したが、登頂を断念した。

 大蔵とはその後も関係が続いた。近藤に娘が生まれると家族ぐるみで付き合った。「ウマがあって、一緒にいて気分がよかった」と大蔵は言う。

 近藤は87年に久美子と結婚後、先鋭的な登山からガイド業に比重を移す。山旅や辺境旅行に強いアトラストレックへ就職、アルプス、カムチャツカ、チベットなど各地を歩いた。同僚の古谷聡紀(58)とアドベンチャーガイズを創業したのは36歳のとき。アトラストレックでは、社の方針で標高6千メートル以上の山をあまり案内していなかった。より本格的な遠征登山の楽しさを味わってほしい。そう考えていたとき、古谷から「一緒にやろう」と誘われた。古谷は言う。

「近藤はお客さまとの人間関係を基盤にガイドするのがうまかった。一方、私は旅行の手配や戦略を考えるのが得意。そして私も近藤も、こんなおもしろいところがある、一緒に行こうよとお客さまに提案し、冒険したいと考えていました。志向が一致し、強みを生かしあえると思ったんです」

■日本初の8千メートル峰 公募隊を率いて成功収める

 南米の6千メートル峰をガイドすると、客のあいだで「8千メートル峰にも」と声が上がった。標高8千メートルを超える山はヒマラヤとカラコルムに14座。酸素量は平地の3分の1、「デスゾーン」と呼ばれる極限の環境だ。ただ、酸素ボンベを使い、登山サポートを担うシェルパをつければ、高所順応次第で技術的にはさほど難しくない山もある。8千メートル、ゆくゆくはエベレスト──。当時の日本にそれを実現できる場はなかった。海外の公募隊に参加するものもいたが、言葉や文化の壁がある。そのハードルをなくせば、より多くの人が8千メートルを目指せるはずだった。

 日本初の8千メートル峰公募隊となった2002年のチョ・オユー(8201メートル)遠征は、これ以上ない成功を収めた。顧客11人に近藤と大蔵喜福が同行し、近藤・大蔵と顧客7人が登頂。なかでも近藤と顧客4人は先導のシェルパとともに外国隊をごぼう抜きし、シーズン最初の登頂チームとなった。近藤は大きな自信と称賛を得た。

(文中敬称略)

(文・川口穣)

※記事の続きはAERA 2023年3月13日号でご覧いただけます

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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