東日本大震災を機に競合する造船会社を統合し、次の100年へ。壮大な起死回生に挑む(撮影/馬場岳人)
東日本大震災を機に競合する造船会社を統合し、次の100年へ。壮大な起死回生に挑む(撮影/馬場岳人)

 みらい造船代表取締役社長、木戸浦健歓。2011年3月11日、宮城県気仙沼市の浪板地区に連なる造船所が被害を受けた。木戸浦健歓が営む木戸浦造船もあった。木戸浦はただ復興するだけでなく、ライバル社と4社で合併し、100年先まで続く造船所を作りたいと交渉し続けた。19年、「みらい造船」の工場が完成。100年先には宇宙船も含めてすべての船を造りたいと、力強く舵を取る。

【写真】シップリフトで海面から造船所の敷地レベルに引き上げられたサンマ船

*  *  *

 冬の気仙沼湾に水鳥が舞っている。着岸していた199トンのサンマ船が、じわじわと垂直にせり上がり、40分余りでマストの先から赤い船底まで姿を現した。建造中のサンマ船は台車に固定されたまま牽引車に引かれて「みらい造船」のドックに入り、所定の位置で止まる。零下5度、寒風をついて作業員が一斉に船にとりついた。

「これがシップリフトです。船を海から陸へ昇降させる設備。潮の干満に関係なく、短時間で上架して作業ができる。日本では沖縄、千葉とうちの三つだけ。世界標準のシステムです」と社長の木戸浦健歓(きどうらたけよし)(52)は淡々と語る。みらい造船は四つの造船所が合併して生まれた稀有な会社だ(のちにさらに1社参加)。2社の統合でも大ごとなのに4社ならどれほど難産か。きつい舵取りを木戸浦は自然体でこなすが、道程は曲折の連続だった。

 みらい造船の地元、宮城県気仙沼市は水産業の街である。カツオの水揚げ量は25年連続日本一、マグロやサンマの船も入り、市経済の約8割を水産業が担う。基盤の造船業は、船主の注文を受けて一隻ずつオーダーメイドで建造し、漁の合間に船体やエンジン、配管、無線、魚艙、冷凍機などさまざまな維持修繕に応じる。街には関連業者が集まり、「気仙沼に船を向けたら、どんな対応でもしてくれる」と船主たちは全幅の信頼を置く。

 その気仙沼が、あの日、2011年3月11日、完膚なきまで打ちのめされた。東日本大震災の津波で港の燃料タンクが破壊され、流出した重油に火がついて湾内を覆った。行方不明者の捜索もままならず、火は陸に燃え移る。当時、浪板地区の海岸線に造船所が連なっていた。津波で、木戸浦造船には北隣の吉田造船鉄工所で建造中の船が乗り上げ、近隣の澤田造船所や小鯖造船鉄工所も船を流される。地盤が76センチも沈下し、海から漁船を引き上げる斜路は海水に浸かり、職人はずぶ濡れの作業を強いられた。造船能力は震災前の6割以下に落ちる。会社を存続できるのか……。

 経営者たちは途方に暮れて、立ちすくんだ。

次のページ