大曲交差点を左折して白鳥橋上に位置する大曲停留所に到着する39系統厩橋行きの都電。欄干には「大曲」の停留所看板が設置されていた。(撮影/諸河久:1968年9月28日)
大曲交差点を左折して白鳥橋上に位置する大曲停留所に到着する39系統厩橋行きの都電。欄干には「大曲」の停留所看板が設置されていた。(撮影/諸河久:1968年9月28日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は神田川に架かる白鳥橋(しらとりばし)上の大曲停留所の情景を紹介しよう。

【50年以上前の貴重な写真や、「お茶の水橋」との比較写真など、続きはこちら(計5枚)】

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 本コラムでは橋上に設置された都電の停留所として四谷見附古川橋を紹介したが、ほかにも著名だったところがある。今回の大曲停留所だ。

 大曲は読んで字のごとく、上流の早稲田方から東に向かって流れる神田川が、南にぐぐっと大きく流れを曲げる地点で、ここに白鳥橋が架橋されていた。現在の文京区と新宿区の区境にあり、付近には「大曲交番」などと当時の名前が残っている。15系統(高田馬場駅前~茅場町)と39系統(早稲田~厩橋)の都電が走っていたが、白鳥橋上の大曲停留所は江戸川線から冨坂線に分岐した39系統が使用していた。

神田川を渡る白鳥橋上の大曲停留所

 冒頭の写真は目白通りを左折して白鳥橋上の大曲停留所に到着する39系統厩橋行きの都電。画面右手前の欄干に大曲と明記した停留所看板が見える。都電後方は江戸川線が敷設された拡幅前の目白通りで、画面左側に15系統が使用する大曲停留所が写っている。

 白鳥橋は江戸前期、この付近に所在した「白鳥ケ池」を由来して名付けられた。画面手前が文京区で神田川の対岸は新宿区になる。都電背景の建物が新宿区新小川町に所在した「観世能楽堂」で、建物に直面する目白通りの拡幅工事により、1972年に渋谷区松濤に移転した。2017年からは「GINZA SIX」地下三階に新設された総檜造りの本格的な能楽堂に再移転している。

 白鳥橋上の冨坂線は1909年の開業で、1929年には20系統(早稲田~外手町)を付番されている。当時の終点だった外手町(そとでちょう)は、隅田川を渡った厩橋東詰めに位置した。その後外手町は厩橋一丁目に改称され、系統番号も15系統に変わった。戦時中は運転区間が早稲田~御徒町三丁目に短縮され、戦後の運転系統改編で39系統に改番され、運転区間も早稲田~厩橋西詰めの厩橋に変更された。

 筆者が大曲の都電を撮影したのは1968年9月28日だった。この日は早稲田車庫が所轄する15系統と39系統の運転最終日にあたっている。飯田橋交差点編でも記述した社会情勢により、両系統にはお別れ装飾電車が運転されず、抑揚のない最終日となった。その反面、他の撮影者やお名残見物人の影響を受けず、普段着のままの大曲風景を描写することができた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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