野球帽は数枚の「パネル」を縫い合わせてつくる。日本では戦後すぐの50年代前半まで、8枚が主流だった。一方、アメリカは30年代後半頃から現在と同じ6枚が主流になる。53年に巨人軍が戦後初の海外キャンプをアメリカのサンタマリアで行い、このときに現地でユニホームや帽子を製作して帰ってきた。その帽子が6パネルで、当時の水原茂監督は旧知のジョー・ディマジオから「8パネルは古い。アメリカは6パネルが主流」と聞き、帰国後、その帽子を八木下帽子店に持ち込んで6枚パネルの帽子を作らせた。これ以降、日本のプロ野球は6枚パネルが主流となる。

 一方、伝統を重んじる学生野球界では8枚が健在だ。代表は早稲田大学。あの白い帽子は、現在も8枚パネルだ。

 野球帽のサイドが立ち上がって、かぶりが深くなってきたのは40年代のアメリカで、帽子のフロント部分裏にバックラムという補強材が取り付けられるようになってからだ。日本では60年代に本格的に採用され、野球帽はみかんを半分に切った形からサイドが立った形になる。

 しかしアメリカでは80年代に入ると伝統回帰の志向もあって、野球帽は丸いシルエットに戻っていく。95年に野茂英雄が海を渡った時、日米で帽子の形が全く違うことに気付いた人も多かったはずだ。アメリカのスタイルがダイレクトに伝わってくる時代になり、日本球界の帽子も丸い形に変化していく。

 2005年にはMLB全球団に野球帽を供給するニューエラ社が日本に上陸。横浜ベイスターズ(当時)などが採用した。

 しかしこの流れに背を向けたのが王貞治と野村克也の両監督だ。王監督が率いた時期の福岡ソフトバンクホークスは垂直型の帽子を堅持していたし、野村監督は東北楽天ゴールデンイーグルス時代、選手やコーチの帽子は丸型だが、自らの帽子は垂直型を作らせてかぶっていた。

 近年目立つ潮流は、帽子のつばを平らなままでキープするかぶり方だ。侍ジャパンの筒香嘉智、菊池涼介、平野佳寿などがこのスタイルを愛用。侍ジャパンのファン・ショップでは通常型の他に、フラットスタイルというつばが平らな帽子も販売されている。ラッパーの若者たちのファッションが始まりで、日本に持ち込んだのは、00年代に横浜ベイスターズや巨人で抑え投手として活躍したマーク・クルーンだった。

 無観客で始まった新時代の野球界。帽子はどのような変化をみせるだろうか。(コラムニスト・綱島理友)

AERA 2020年7月6日号