哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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コロナ禍の経済への打撃は予想を超えて大きい。IMF(国際通貨基金)は2020年の世界経済の成長率はマイナス3.0%と予測。世界恐慌以来の数字である。米国はマイナス5.9%、ユーロ圏はマイナス7.5%、日本はマイナス5.2%。感染が年末までに終息しなければ、21年もマイナスになる可能性がある。
日本は高度成長期、安定成長期、低成長期と推移してきたわけだが、ここに来て「マイナス成長期」という未知のフェーズに入ったことになる。これまでの経済政策を準用することはもうできない。五輪、万博、カジノ、リニアなどはすべて「右肩上がり」を前提にした政策であるから、マイナス成長期にはほとんど効果がなく、むしろ害をもたらすだろう。
このような条件の下で私たちはどうふるまえばいいのか?
とりあえず今回のコロナ禍から私たちは「危機耐性が強かったのはどういう条件を満たした国か」だけは学んだ。それは最悪の事態に備えて国民資源に「余裕(スラック)」を残しておいた国。医療品、食糧、エネルギーなど生き延びるために必須の物資を他国に依存せず自給自足できる国。「自国ファースト」に閉じこもらず、国際協力の手立てを工夫した国。指導者が国民に明確なメッセージを発信し、「正常性バイアス」にとらわれない大胆な政策を採択した国である。それらの条件を満たすことがこれからの「あるべき国」の条件になるだろう。
いま不用意に「国」と書いたが、実際にはパンデミックに際して活動の基本単位になったのは必ずしも「国」ではなかった。中国、韓国、台湾などではたしかに「国」が中枢的に機能して感染制御に成功した。だが、米国では連邦政府と州政府で政策に違いがあり、州政府の指導者の資質が市民生活に直結した。日本でも政府方針に抗って独自の住民支援に踏み切った自治体が出てきた。
危機に際会した時には、政府に全権を委ねるべきか、市民生活に近い政治単位に権限や財源を委譲すべきか、私たちが久しく閑却してきた地方自治にかかわる根源的な問いがいきなり目の前に突きつけられた。国民はこの問いへどう答えるだろう。
※AERA 2020年4月27日号