哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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国有林を伐採・販売する権利を民間業者に与える法律が成立した。権利を得た業者は最長50年間独占的な樹木採取権を手に入れる。林業の「成長産業化」をめざすという触れ込みだが、林業者の90%が小規模・零細で、大規模な伐採を行う資力を持たない日本では、国有林の材木が外資を含む大企業の専有物になることは確実である。
さらに問題なのは、法律が伐採後の植林を義務づけていないことである。金儲けのために林業に参入してくる人たちが、伐採後に日本の森を守るために再造林のコストを善意で負担してくれるだろうという予測に私は与しない。日本の国有林の相当部分は遠からず禿山になるだろう。
記事を読んでいるうちに似た話が昔あったことを思い出した。
明治末年の神社合祀の時、多くの神社が取り壊されたことがあった。全国の神社20万社の3分の1が廃社となり、所有する山林が民間業者に二束三文で払い下げられた。その実情について、当時神社合祀に孤軍奮闘して反対した南方熊楠が怒りを込めてこう記述している。
「他処の人々が濡れ手で粟を攫み、村民はほんの器械につかわれ、(中略)霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐尽され、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候」「官公吏たりし人、他県より大商巨富を誘い来たり、訴訟して打ち勝ち、到るところ山林を濫伐し、規則を顧みず、径三、四寸の木をすら伐り残さず、(中略)木乱伐しおわりその人々去るあとは戦争後のごとく、村に木もなく、神森もなく、何にもなく、ただただ荒れ果つるのみこれあり、(中略)もとより跡に木を植え付ける備えもなければ、跡地に、ススキ、チガヤ等を生ずるのみ、牛羊を牧することすらならず、土石崩壊、年々風災洪水の害聞到らざるなく、実に多事多患の地相と成り居り申し候」
「他処」より来たった「大商巨富」によって豊かな森林が荒廃した日本林業史上のこの大事件を法律に賛成した議員たちは知っていたのだろうか。知らずに賛成したのならその無知に、知って賛成したならその強欲に唖然とする他ない。
※AERA 2019年6月24日号