霞が関でも女性の登用が進んでいる。2015年1月には、当時厚生労働事務次官だった村木厚子さんが霞が関女性幹部職員ミーティングに出席、意見交換に臨んだ (c)朝日新聞社
霞が関でも女性の登用が進んでいる。2015年1月には、当時厚生労働事務次官だった村木厚子さんが霞が関女性幹部職員ミーティングに出席、意見交換に臨んだ (c)朝日新聞社
女性をめぐる社会の動き(AERA 2019年4月22日号より)
女性をめぐる社会の動き(AERA 2019年4月22日号より)

 法律さえできれば、「男女平等」になるのだと思っていた。けれど、その先にあったのは、孤独と闇。そして「保活」や「ワンオペ」という消耗戦だった。ジャーナリスト・清野由美氏がリポートする。

【年表で見る】1985年から女性をめぐる社会の動きはどんなことがあった?

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 平成時代には雇均法に続き、「男女共同参画社会基本法」(1999年)、「女性活躍推進法」(2015年)と、女性の社会進出を促進する二つの法律も成立した。それらによって、企業社会に男女平等の概念がより浸透したことは確かだろう。

 しかし、もっとあからさまになったのは、女性の歩む先が「スマートにカッコよく自立する私」ではなく、望まない労働も男性と「対等に」課せられる現実。目論見通りにはいかない。

 人材育成コンサルタントの渋井真帆さん(47)は、02年に「女のたしなみ経済塾」を立ち上げ、女性限定のビジネスセミナーという、新しい市場を開拓。背景には自身の苦い経験があった。

 94年の就職氷河期に、都市銀行に総合職として入行。不況で目にしたのは、貸しはがしをはじめとする、シビアな光景ばかり。一足先に入行していた雇均法第1世代の先輩女性たちの姿にも、希望は感じられなかった。

「仕事も恋愛もと、チャンスを与えられて、だからこそ迷いに突入し、どっちつかずに沈んでいく。この轍を踏んではいけない、と震えました」

 社内の先輩だった男性と結婚を決めて短期間で辞職。総合職の同期の女性は、男性300人に対し5人だったが、ほどなくして全員が辞めていった。

 銀行にいたおかげで、経済を他者に依存するリスクは身に染みていた。しかし再就職を求めても、銀行と同じ条件は皆無。ハローワークで見つけた30社にもひっかからず、気が付けば近所のパン屋で時給650円のパートに。「アタシったら、何やってんだろ」と落ち込み、百貨店の香水売り場の販売員からキャリアをたたき上げ直した。

 ビジネス塾では女性受講者たちに、「選択肢のある人生を目指そう。そのために、健全に自立しよう」

 と、自己改革を繰り返し説いた。

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