戦争末期の1944年12月7日、紀伊半島沖でM7.9の地震が起き、愛知・三重・静岡に大きな被害が出た。東南海地震である。しかし、地震調査は極秘とされ、報道は厳しく統制された。前出の『事典』によると、翌8日に各紙は1面に日米開戦3周年の特集を組み、扱いは小さかった。被災地の中部日本新聞ですら、3面隅に「天災に怯まず復旧」の2段見出しで、「一億戦友愛を発揮した頼もしい風景」を報じただけだった。

 45年1月13日にはM6.8の三河地震が起きたが、これも被害の詳細は不明だ。『事典』によれば、翌日各紙は2面片隅にベタ記事の扱いだった。被害を軽微に見せ、人心の安定を優先する戦時下報道の典型だ。

 敗戦をはさんで翌46年12月21日には、和歌山県沖を震源とするM8.0の南海地震が起きた。この場合は詳細な記録も残されたが、新聞は紙幅が限られ、GHQの統制下に置かれていた。空襲で焦土と化した各地で、どれが地震・津波による被害か、特定するのも難しかった。

 つまり、戦時中と占領期に起きた昭和の災害は、十分に報じられず、関東大震災のような集合記憶にはならなかった。いわば災害記憶の「空白域」だ。

 阪神・淡路の前年に出版された『大地動乱の時代』(岩波新書)で、石橋克彦氏は、幕末に始まる関東の「大地動乱の時代」は七十余年続いたのち、関東大震災とその余震活動で幕を閉じ「大地平和の時代」に入った、と指摘した。戦後の首都圏は超過密都市になったが、いずれ「動乱の時代」を迎える、という警告だ。

 列島は百年、千年単位の地震に繰り返し襲われ、明治大正まで、それは民衆の災害記憶に刻まれてきた。だが戦時中は、「戦災」が自然災害よりも前面に押し出され、記憶から欠落した。その後の高度成長期も、たまたま「大地平和の時代」に重なったため、「昭和」は、敗戦を折り返しとする「戦争」と「平和」の時代として記憶された。

 つまり災害に限れば、「平成」とは、昭和期に潜在化した自然災害リスクが顕在化し、この国が差し迫った危機に立ち向かうようになった時期といえる。

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