1週間後、ジェット機で上空から被災地を見て、翌日から車で東北3県を回った。在社最後の日に本誌に長いルポを書いた。陸に取り残された無数の船。巨大な圧力に身をちぎられたビル。一面のガレキの山を前に震える人々。「これほどの無明を、見たことはなかった」。記事にそう書き、明治三陸地震津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に逝った宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で締めくくるしかなかった。

 平成末の昨年9月6日、北海道で震度7の地震が起き、札幌の自宅にいた私も日本初の全域停電(ブラックアウト)を経験した。通信・交通・物流が全面停止する「ネットワーク被災」だ。

●予知神話と安全神話に戦後の繁栄は支えられた

阪神・淡路」と「東日本」を長期取材して感じたのは、戦後の繁栄は二つの「神話」に支えられたということだ。「予知神話」と「安全神話」である。

 日本では1962年に地震学者が「地震予知─現状とその推進計画」を作り、65年から地震予知が国家事業としてスタートした。さらに東海地震が切迫しているという想定で78年には大規模地震対策特別措置法(大震法)が制定された。気象庁が監視し、専門家による「判定会」を経て首相が警戒宣言を出す仕組みだ。

 百年、千年単位の巨大地震に、膨大な防災コストはかけられない。だが、いざ起きてしまうと被害は甚大だ。超低頻度という大地震の特性から、人々は緒についたばかりの予知研究に過大な期待をかけ、「東海地震は予知できる」という前提で法律ができ、世論もそれを受け入れた。

「予知神話」は「東海以外に大地震は起きない」という誤信を生み、阪神・淡路まで、「神戸では大地震は起きない」と多くの人が信じていた。予知研究は観測網の強化とデータ集積で地震学に大きく貢献したが、「予知頼み」という社会の歪みは東日本まで続いた。

 第二の「安全神話」は、「世界一厳しい耐震基準を採る日本で、大きな土木・建築被害は起きない」という確信を指す。日本では1923年の関東大震災の後、当時の「東京の下町」を基準とする厳しい耐震設計法が採用された。戦後の81年にはさらに厳しい「新耐震設計法」も導入された。しかし、ここでも想定する揺れの最大加速度は、関東大震災における「東京区部」の揺れに近かった。

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