皇太子として「戦争」を語った陛下。平成になってすぐに美智子さまが「平和」を詠み、それからお二人は戦争の跡地を訪ねる「慰霊の旅」を始めた。そして在位30年にあたり、陛下は国民への謝意を表明した。「国民の民度」のおかげで務めを果たせた、と。「平和」を決意する「ことば」を届けてくれた国民も念頭にあってのことだったに違いない。

 慰霊の旅は、「戦後50年(1995年)」の前年、硫黄島訪問から始まり、翌年に長崎、広島、沖縄、東京都慰霊堂を訪ねた。関東大震災と東京大空襲の犠牲者の遺骨が納められている慰霊堂の存在を、この時知った人も多かったのではないだろうか。

●火炎瓶を投げられても、「この地に心を寄せ続ける」

 海外での慰霊は「戦後60年(2005年)」のサイパン、「70年(15年)」のパラオ、その翌年1月のフィリピンまで続いた。

 記念式典で、祝辞を述べた人々の多くが、慰霊の旅と被災地への訪問、そして沖縄に心を寄せたお二人のことを語った。沖縄県出身の歌手三浦大知さん(31)が、「歌声の響」を歌った。

 琉歌(りゅうか)という沖縄伝統の定型詩(八八八六の音数律)の形で陛下が作詞、美智子さまが曲を付けた。琉歌を詠む人は、今では沖縄でも多くないというから、詩そのものが陛下の思いを表している。きっかけはやはり昭和、沖縄への初訪問で訪れた、名護市の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」だ。

 1975年、まだハンセン病への偏見、差別が残る時代、お二人の訪問は大歓迎を受けた。帰り際、見送る盲人会の人々が「だんじょかれよし」を歌い出した。沖縄の船出歌だ。お二人は最後まで車に乗らず、じっと聞かれたという。当時の光景を陛下が詠み、「歌声の響」になった。

 その時の訪問は戦争の記憶がまだ消えていない時代だったから、歓迎一色ではなかった。「ひめゆりの塔」では過激派の活動家が火炎瓶をお二人に投げた。その日のうちに陛下(当時は皇太子)は、談話を発表した。

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