特に私が惹かれたのは、共感と包容力のある写真です。被写体の表情に、ある種のポジティブさがあります。たとえば、16年5月16日号の菅田将暉さん、16年12月19日号のコムアイさん、17年7月10日号の高畑充希さん、そして17年8月7日号の山崎賢人さん。彼らのポートレートから読み取れるポジティブさは、若さかもしれないし、生命力かもしれない。蜷川さんには、そういうものを増幅してあげようという意識が働いているのでは。

 17年4月3日号の亀梨和也さん、18年4月16日号の坂口健太郎さんを包む自然光には、亡父・蜷川幸雄さんが亡くなるまでの1年半に撮った写真集『うつくしい日々』の揺れ動く光の写真とつながるものを感じます。こうした光の表現は、90年代にあった「儚さ」の写真に似ています。アメリカでは、「儚さ」のポジティブなものが、「セレブレーション」というキーワードで撮影されていました。そこには、「現実は最悪だから生を謳歌することを応援しよう」という視点がありました。

 もし、現代において、死についての考え方が軽くなっているとしても、上の世代が揶揄して言うように、現実が「ゲームのように希薄で済む」わけではない。生きるということを、違う形で発明しないといけない。アメリカを代表する同世代の写真家、ライアン・マッギンレーにもそうした面がありますよね。いまを絶望として悲観しないで、ポジティブに考えるということが、自然にできている。

 こうした写真は、「おじさん」には撮れないですよ。信じているものが違うからです。そうした視点が、人の共感をつくっていくのでしょう。そして見る人をエンパワーするのです。

 ポスト・トゥルースという言葉が生まれ、フェイクニュースが跋扈し、虚構と現実の間ですべての人が生きなければいけない時代だとしたら、世の中だけではなく、写真もその運命から逃れられません。多くの人はスマホで自撮りをし、目を大きくしたり、肌を整えたり、写真を加工しますよね。真実を求めることが、前提にならない時代です。

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