そもそも世の中に真実はあるのかさえ怪しくなるなかで、人々が共有している新しい言語性に、蜷川実花というプロの写真家は逆に接近していくことを選んでいるように思います。

かつて、写真家のライバルは写真家でした。ところが、いまは、全世界が日常をスマホで撮り、加工し、発信している無数の写真と、写真家の写真がライバルになったということです。

 蜷川さんが今後さらに成熟していく過程で再編していく写真の質は、全世界の人による写真と会話をし、「いいね」と言い合える写真ではないでしょうか。

 これは、自信と、そこに至るまでのプロセスがなければ、決してできないことです。

 演出家・蜷川幸雄の娘と呼ばれ、写真家としては女流写真家と呼ばれ、そうした歴史の中での葛藤は、他人の想像を超えたものでしょう。

 写真が男性の視点で成立してきたということ自体、女性写真家にとって重いことです。「男女平等」であると、記号的に社会制度を整えたからといって、人の価値観まで一気に変わるわけではありません。西洋でも女性写真家が闘ってきた歴史があります。格闘して、自分のスタイルを相手に強要するなどマッチョにならざるをえなかったり、告発めいた被害者意識が根強く残ったりすることもあるでしょう。

 蜷川さんは被写体の嫌がることは強要しません。蜷川さんの眼差しは、偉大な女性写真家のなかにも、もちろん男性写真家のなかにも、前例のないものです。極東の日本という国から出発した蜷川さんが、こうした壁をクリアして、違うステージに行くのかもしれません。

 いま、AERAの写真を蜷川実花が撮ることの意味深さを、期待を込めてそう感じています。

AERA 2018年5月14日号