西サハラ民族大会は西サハラ人が祖国解放に向けた闘争方針を話し合い、意思決定を行う最も重要なイベントだ。15年12月の第14回大会は、モロッコの妨害を避けて、難民センターから190キロ離れたダハラ難民キャンプで開催された。私は大会を取材するため、難民のアラビ家のテントに居候させてもらった。

 アラビ一家は17人。つぎはぎだらけの古いテントで生活していた。1カ月前まで日干し煉瓦で手作りした小屋に住んでいたが、大洪水で小屋は溶けて流されてしまったという。

 アラビ家の人々は、40年前にあった出来事を私に話してくれた。一家が暮らしていた町に、突然、モロッコ軍機のクラスター爆弾やナパーム弾が襲いかかった。当時11歳のマグダードと10歳のラギーヤの姉妹は、母や近所の人たち数百人と一緒に着の身着のまま町を脱出した。

 父はモロッコ軍との戦闘ですでに戦死していた。冬の砂漠は気温が零度を下回り、老人や幼児は次々と命を落とした。エルワリ率いる西サハラ難民軍に導かれてアルジェリア国境を目指す難民たちに、モロッコ軍は執拗に空爆を続ける。故郷からアルジェリア国境まで200キロ。

「砂漠の遊牧民がラクダのミルクやナツメグをくれなかったら、飢え死にしていたよ」

 とラギーヤ(52)。姉のマグダード(53)は言った。

「モロッコ人は人でなしだ! アッラーの罰があたるよ!」

 難民の逃避行の話になると、だれもが民族衣装の裾で涙を拭う。西サハラ難民のどの家庭にも、こうした難民逃避行の経験がある。悲惨な体験が難民同士を固く結びつけている。(文中一部敬称略)(ジャーナリスト・平田伊都子)

AERA 2018年3月19日号より抜粋