コンペは他の候補者と拮抗していたと思う。そんなとき、香港国際映画祭で僕の作品が特集上映されて、アジア・フィルム・アワードでエドワード・ヤン記念アジア新人監督大賞をもらった。流れがきてる?と予感がしたあとすぐスカラシップも決まった感じでした。でも、そこから20回くらいは脚本を直したかな。当時の僕は女性の情念が噴出していく様を表現することにとらわれていたんですが、スカラシップのプロデューサーの天野真弓さんと話し合ったり、藤原新也さんの『東京漂流』を読んでシジミを捕る人に興味を持ったりして「川の底からこんにちは」ができていきました。

 商業映画の現場で大変だったのは、プロのスタッフと自分の思いを共有すること。自主映画では独裁者みたいにやっていたから映画用語も知らないんですよ。一生懸命伝えようとしても理解してもらえなくて……。泊まりでの撮影中に、大浴場でロケバスの運転手さんに声をかけられたんです。「監督、大丈夫?」って。「なぜですか?」と聞いたら「毎年、監督はみんな泣いてるからね」。それを聞いたとき、すごくホッとしました。この大変さは通過儀礼なんだって。それから前向きになれました。おかげで「川の~」は大勢の人が見て、僕を知ってもらうきっかけになった。24歳くらいまで、誰にも望まれてないのに映画を作り続ける状況がホントにきつかったんです。でもPFFやスカラシップ作品を通して、一生懸命やればちゃんと分かってもらえることを知った。それは大きな変化でした。

(ライター・大道絵里子)

AERA 2018年1月15日号