「住民の皆さんの資金で始まった病院ですから、絶対に潰してはならない。応援の医師、看護師、事務職員、必死でした。地域あっての病院、病院あっての地域。貴重な教訓を得ました」

 徳田は、行政や医師会との闘いや、古いピラミッド型の医師組織との軋轢(あつれき)を経て、「政治力」の必要性を痛感する。自分が政治力をつければ反発を抑え、病院を建て続けられると読んだ。衆議院選挙に打って出る。83年、86年と落選するが、90年に三度目の正直で当選をはたす。羽生での住民運動は選挙活動の参考になった。

 では、国会議員のバッジは、徳田の狙いどおり効力を発揮したのだろうか。徳洲会の元幹部(61)は、こう証言する。

「厚生省の対応が変わりました。徳田は保守系議員で、国政調査権を持っている。邪険にはできない。反感を買ったら昇進できない。役人は保身に入る。政治ってこんなものかと思いました」

 当初、徳田は自民党入りを望んだがかなわず、政党の「自由連合」をこしらえる。政策の軸が定まらない自由連合に有力な政治家は集まらず、政党要件を満たすのが精一杯だった。

 この自由連合に、徳田は莫大な政治資金を投じた。選挙では大勢の候補者を立て、徳洲会の関連会社を迂回させて巨額の融資を行う。選挙運動には病院の職員を大量に動員した。「政治とカネ」の歪みがたまっていく。

 2002年、徳田は全身の筋力が衰える難病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。

 羽生病院の現院長、松本は、徳田がALSの診断を受けて間もないころ、招聘の面接を受けている。群馬大学医学部出身の松本は、三井記念病院、国立がん研究センター、伊勢崎市民病院で経験を積み、徳洲会に招かれた。

●解体の危機に瀕した徳洲会 徳田一族との関係を絶つ

 ある夜、面接で東京・赤坂の徳洲会本部に出向いた。徳田はじめ職員が事務所の床に胡坐をかいて車座にすわり、餃子や春巻き、焼きそばと、料理店で買ったものを分け合って食べていた。

「おお、来たか、一緒に食おうって。びっくりしました(笑)。徳洲会独特、奄美の文化ですかねぇ。徳田さんは、じーっと私の目の奥をのぞきこんで、喋りました。あんな目で見られたのは初めてでした」と松本は述懐する。

 2度目の面接で、松本は院長就任を受けた。すると、徳田はこう告げた。

「病院は任せる。好きなようにやれ。これまで僕は院長をクビにしたことはない。ただ、職員が院長をクビにすることはある。部下が、この院長にはついていけないと思ったらクビを切られる。だから、院長は人の3倍働かんといかん。仕事の量と質で勝て」

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