けれども、カルテひとつとっても地域の診療所と病院が双方向で共有しているとは言い難い。松本が指摘する。

「たとえば救急の患者さんの場合、ふだんの血圧はどうか、糖尿ではないか、検査結果はどうか、かかりつけ医のデータがほしい。私たちのグループ内では、いち早く電子カルテで診療所や介護施設、在宅診療部門などと双方向ですべて共有し、必要に応じて取り出せるようにしました。でも他の開業医とはまだ難しい。情報の壁があります」

 そもそも羽生病院は、厚労省の制度設計を追いかけて地域と結びついたのではない。住民のニーズに応えているうちに現在の形ができたようだ。

 老健施設「あいの郷」は、羽生病院から車で5分のところにある。事務長の勇仁(いさみひとし)は「近さ」の利点をこう述べる。

「施設にはドクターが1人いますが、入所者さんの容体の急変にも十分、救急対応できます。羽生病院を退院して、こちらに入っている方もいます。病院との連携は大きいですね」

 素朴な疑問が頭をもたげる。なぜ羽生病院は地域に密着できたのだろう。疑問を解く鍵は「出自」にある。じつは、羽生病院と関連施設の運営母体は、医療法人ではなく、「埼玉医療生活協同組合」である。地域住民が、お金を出して組合に加入し、運営する組織だ。

 徳洲会は埼玉医療生協の立ち上げに深くかかわり、医療、介護事業を切り盛りしてきた。その来歴に地域密着のドラマが潜んでいる。話は、1980年代、医療生協設立前夜にさかのぼる。

 82年2月、徳田は「早く、早く」と秘書に猛スピードで車を運転させ、羽生市内の集会をハシゴしていた。

 羽生では交通事故で息子を亡くした父親が、「救急医療が実現すれば救える命がある」と総合病院の誘致に熱心だった。しかし、地元医師会の猛反対で、膠着状態が続く。徳洲会は住民側に医療生協の設立を提案し、若手職員数十人を羽生に送り込んだ。

●抗う外部から招かれた院長 徳洲会からの独立もくろむ

 若い職員は、研修所で雑魚寝の合宿をしながら、飛び込みで住民を訪ねて回る。病院建設の意図を説き、ひと口5千円の入会金を払って組合員になってほしいと「営業」をした。半信半疑の住民に「徳田が皆さまに説明をする準備会を開きますので、ぜひ、お越しください」とつなぎとめる。

 そして、寒風吹きすさぶ日に市内十数カ所で車座集会が企画された。徳田は「急げ、急げ」と秘書に催促し、住民と対面して回ったのである。

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