行く先々で「貧乏人も金持ちも関係ない。生命だけは平等だ」と力説し、住民の心をつかんだ。医師会の反対を抑えて医療生協設立の機運が高まった。当時、若手職員を指導した埼玉医療生協専務理事、中川和喜は、住民を巻き込んだ活動の「副産物」について、こう回想する。

「いきなり見ず知らずのお宅を訪ねて、5千円出して医療生協に入ってくださいと頼むわけです。緊張しますよ。門前払いを食うのは当たり前。だけど病院をつくりたい。その思いが住民の皆さんに通じるのを徳田さんは見ていて、『これだっ』と選挙に出る腹を固めた。このやり方で選挙運動もやろう、と。ローラー作戦で一軒ずつ回って懐に飛び込む方法を見つけたんです」

 約3万2千人の住民が出資して埼玉医療生協が創設された。医療生協なので徳洲会の名前は冠せられないが、医師である徳田の弟が理事長に就いた。弟は激情型の兄と違って温厚で、紳士然としていた。この弟が夭逝しなければ、徳洲会は違う組織になっていたのではないか、ともいわれる。

 83年9月、関東の医療法人から院長を迎え、羽生病院が開院した。各科の医師は院長の人脈で集められる。病院は順調に滑り出したかに見えた。

 ところが、「年中無休・24時間診療」「患者からはミカンひとつももらわない」という徳洲会のやり方に外部から招かれた院長は抗う。徳田のコントロールを脱し、独立しようともくろんだ。院長たちは母体の埼玉医療生協の幹部に徳洲会からの脱退をもちかける。

 不穏な動きを察した徳田は羽生に急行した。医療生協の意思決定は、組合員の理事会で行われる。徳田は埼玉医療生協の理事会に乗り込み、

「徳洲会を取るか、現状の医者たちを取るか、はっきりしてほしい」

 と、鬼の形相で迫った。

●効力を発揮した議員バッジ 厚生省の対応が変わる

 理事会は、医療生協の立ち上げをゼロから支えてきた徳洲会を選んだ。

 院長以下、医師全員と事務方トップの専務理事は憤り、84年1月、一斉に辞めた。患者を抱えた病院で、医者が職場放棄したのだからたまらない。羽生病院は空中分解の危機に直面した。

 徳田は徳洲会に入職して日の浅い医師を新しい院長に据える。岸和田、沖縄南部、茅ケ崎などのグループ病院から腕利きの医師を応援で送り込み、診療体制を維持した。羽生病院は、あわや内部崩壊の寸前で、踏みとどまる。その後、持ち直し、地域の中核病院に育った。経緯を知る中川は振り返る。

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