京男の色気は欠損ではなく、余裕だ。飄々とした雰囲気、他者と比較されない独立した存在、それが京男だ。

 プライドもあり、自分自身を愛してはいるけれど、それが厭味にならない。また自己主張をあまりしないのに、印象だけで存在感が強いのも京男。

 京男は、京都という街そのものだ。東京にコンプレックスがある関西人は少なくないが、京男にはそれを感じない。何故なら、そもそも東京より京都のほうが歴史が古く、ずっと日本の中心であったのだが、今はたまたま首都が東京に行ってるだけで、日本の中心は京都だと本気で思っていたりするからだ。

「東京なんて、なんぼのもんじゃ!」なんて、口にはしない。最初から京都のほうが上で、「東京がどうしはりましたか?」と、にこやかに微笑む余裕を見せる。

 以前、友人の若い京男の僧侶に、「京都から出たいと思ったことないの?」と質問したら、こう返事が返ってきた。

「京都にいたら、手に入らないものはない。でも、京都でしか手に入らないものは、たくさんある。だから出る必要なんて、ないでしょ」と。

 なるほどな、と思った。確かに京都でしか手に入らないものは、たくさんある。物であったり、景色であったり、人であったり、と。だから東京行って一旗揚げてやる!という気概はない。

 東日本大震災以降、芸能人、文化人たちが京都に移住した話もよく聞く。ネット社会になって仕事がどこでもできるようになったら、なおさらのこと「京都でしか手に入らないもの」を求めて人は京都を訪れる。

 最近は観光客が増えすぎてはいるが、なんだかんだ言って京都は、景観条例があるために高い建物がなく、美しい山の稜線をどこでも眺められ、緑があり、食べ物も美味しく、コンパクトな街なので移動しやすいし、住みやすくいい場所だ。

 よく、「京都の人は裏表がある」と言われるが、裏表あるなんて当たり前だし、特に京都の人に嫌な印象を持ったことはない。

 京都人じゃないくせに京都を書いてることに、もっと批判されたり意地悪を言われたりするんじゃないかと懸念したけど、そうでもない。それもおそらく京都人の「余裕」だ。他人を攻撃するほど、他人を意識していないのは、自己が確立しているからだ。

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