【コラム】「非核三原則」と「核の傘」一体の半世紀

「非核三原則」は、安倍晋三首相の大叔父にあたる佐藤栄作首相が半世紀前に「核兵器の絶滅を念願し」つつ唱えたものだ。だが当初から、米国の「核の傘」を頼む日本の防衛と表裏一体をなすものだった。

「持たず」「作らず」をもたらしたのは、1964年に行われた中国初の核実験だ。日本を震撼させたこの核実験を受けて、佐藤首相は、「他人が核を持てば自分も持つのは常識」とライシャワー駐日米大使を牽制。翌年の日米首脳会談で、ジョンソン大統領に「核の傘」の提供を約束させた。報復用の核兵器を持つことで相手に自分を攻撃させない「抑止力」。これを同盟国の米国に頼ることで、「持たず、作らず」は成り立っている。

「持ち込ませず」に至る経緯はさらに複雑だ。

 非核三原則は佐藤首相が67年12月の国会答弁で表明したが、この答弁は、沖縄に先立ち米国からの返還が決まった小笠原諸島について、核兵器が持ち込まれないことの確認を求めた社会党の質問に対するものだった。

 佐藤首相は「(小笠原諸島にも)本土なみ」に核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」の原則が適用され、米国が核兵器を持ち込もうとすれば事前協議の対象になると答弁。これで「持ち込ませず」を担保できると日本政府は説明してきたが、実際は違った。

 米国は核配備を肯定も否定もしない政策。これは「事前協議」とは矛盾する。核を搭載した艦船の一時寄港については63年、ライシャワー大使が「持ち込み」にあたらないとの見解を大平正芳外相に伝えていた。

 この経緯は、民主党政権時の2010年に外務省の「密約問題に関する有識者委員会」が調査し確認。「政府は核搭載艦船の事前協議なしの寄港を黙認した」とし、「持ち込ませず」に関し、「説明はうそを含む不正直なもの」だったと指摘した。

 つまり、「持ち込ませず」については反核感情の強い国民に核の傘の広がりを隠す役割を果たしてきたことが露呈しており、どういう意味で「堅持」するのかはいまも問われている。

AERA 2017年9月25日号