夏目漱石ほど日本人に長く愛される作家は珍しい。しかもその魅力はあせるどころか、心酔者は今でも着実に増えている(撮影/富岡秀次)
夏目漱石ほど日本人に長く愛される作家は珍しい。しかもその魅力はあせるどころか、心酔者は今でも着実に増えている(撮影/富岡秀次)

 今年は文豪、夏目漱石の没後100年。来年は生誕150周年だ。近代知識人の苦悩を追究した数々の作品は、今でも多くの人たちに愛読されている。漱石の足跡を求めてロンドンを歩いた。

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 夏目漱石(1867<慶応3>年─1916<大正5>年、本名・夏目金之助)は1900(明治33)年、文部省(当時)から国費留学生として英語教育法研究のためにイギリス留学を命ぜられ、2年間ほどロンドンで過ごした。1900年10月28日、ロンドンに到着すると、ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン近くのガウワー通りのホテル(B&B)でまず荷を解いた。ここには、11月11日までわずか約2週間の滞在だった。というのは簡易ホテルとはいえ料金が高かったためだ。政府から年間1800円を支給されたから、1カ月は150円の計算になる。部屋代と食費に一日6円は必要だったため、たちまち赤字だ。漱石はすぐに安い下宿先を探し始めないといけなかった。結局、異国で5カ所ほどを転々としている。

 留学について漱石は「倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍(ご)する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり」(『文学論』)と記している。不愉快の原因には、経済的なゆとりのなさも含まれただろう。

●下宿先からロンドン塔

 ロンドン到着後、漱石が最初に訪れた名所はロンドン塔だった。到着からわずか3日後の10月31日に足を向けた。下宿先からロンドン塔までは歩いて行っている。「滅多な交通機関を利用仕ようとすると、どこへ連れて行かれるか分からない」(『倫敦塔』)というわけで、交通を使わず地図を見たり人に聞いたりしてロンドン塔にたどりついた。

 幻想的な紀行文『倫敦塔』は1905(明治38)年1月、雑誌「帝国文学」に文学士夏目金之助の名前で発表された。同時期に『吾輩はである』が「ホトトギス」に掲載されて大評判になり、翌年には『坊っちゃん』『草枕』と話題作が続いた。1907(明治40)年には東京帝国大学を辞して朝日新聞社に入社、創作に専念する。『倫敦塔』は作家としての出発を飾る傑作のひとつなのだ。

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多賀幹子

多賀幹子

お茶の水女子大学文教育学部卒業。東京都生まれ。企業広報誌の編集長を経てジャーナリストに。女性、教育、王室などをテーマに取材。執筆活動のほか、テレビ出演、講演活動などを行う。著書に『英国女王が伝授する70歳からの品格』『親たちの暴走』など

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