ロンドン南西部チェルシーの「カーライル・ハウス」は、まるで隠れ家のように住宅地の奥まったところにある。カーライルは、この家に1834年から亡くなるまで暮らした。1936年からはナショナル・トラスト(イギリスの政治家・文化人の住宅などを管理するチャリティー団体)の管理下にある。「余は今この四角な家の石階の上に立って鬼の面のノッカーをコツコツと敲く」(『カーライル博物館』)とある。

 私も同じことをすると、ボランティアの女性がドアを開けた。事情を告げると、管理責任者のスキッピングさんが奥から一冊の入館者名簿を持ってきた。かなり古くて傷んではいたが、漱石とロンドンで親交のあった池田菊苗(1864─1936。化学者で味の素の発明者)のローマ字名が同じ筆跡で上下に並んでいる。K.Ikedaの下にK.Natsumeの署名が見てとれた。

 スキッピングさんは、「漱石が先に池田さんの名前を書き、下に自分の名前を書いたのは、年上の人への心遣いではないでしょうか」と話した。

●小説家の道を選ぶ決断

 また漱石を案内した女性をロンドン漱石記念館の恒松郁生館長(64)が特定した新聞記事も示した。女性はストロング夫人といい、当時40代。博物館の裏庭で撮影された写真も添えてある。漱石は「今余の案内をして居る婆さんはあんぱんの如く丸るい」と書いた。ユーモアを込めて描写されたストロング夫人の言動が、カーライルへの敬愛の気持ちを際立たせて効果的である。

 漱石は、留学から帰国すると小説家への道を選ぶ。イギリス体験がその決定に影響を与えた。実際、ロンドン留学で得たものについて、漱石は学習院での講演でこう述べた。「私は多年の間懊悩した結果、ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがっちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです」(『私の個人主義』)。ノイローゼになるほどつらく苦しいイギリス滞在だったが、それが日本を代表する文豪の誕生を促したのは間違いない。

「ロンドン漱石記念館」は、漱石の最後の下宿の建物の向かいにあった。84年に開館し、当時ロンドン在住だった恒松さんが収集した漱石の留学時代の貴重な資料などが展示された。所蔵品は約2千点にのぼる。漱石が購入した図書目録、個人教授を受けたクレイグ先生の写真など、ロンドンでの生活や研究ぶりが手に取るように伝わる。約32年間に約2万人が訪れた。日本人ばかりでなく海外の研究者も少なくない。皇太子さまや作家の故司馬遼太郎氏らも来館した。

●漱石の経験に学ぶ

 当初は来秋の閉館予定だったが、今年6月にイギリスのEU離脱が決定すると、不動産市場が不安定になり、1年ほど前倒しにした。今年9月28日が最終日だった。恒松さんは話す。

「当初は不安もあったが、皆様の支援のおかげで30年以上やってこられた。感謝の気持ちと満足感でいっぱいです。たとえ建物はなくても、ネットを通じてつながることはできるし研究は続けたい。漱石のロンドンでの経験が今の私たちに何を教えているのか、私たちはそこから何を学ぶことができるかを、これからも読み解いていってほしい」

(フリージャーナリスト・多賀幹子)

AERA 2016年10月24日号

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多賀幹子

多賀幹子

お茶の水女子大学文教育学部卒業。東京都生まれ。企業広報誌の編集長を経てジャーナリストに。女性、教育、王室などをテーマに取材。執筆活動のほか、テレビ出演、講演活動などを行う。著書に『英国女王が伝授する70歳からの品格』『親たちの暴走』など

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