映画では、兄を惨殺されたメガネ職人の男性アディ・ルクンさんが、殺害の実行者やその上官ら一人ひとりに会い、その責任を真正面から問いかける。

 最初は「国を守るためだった」「共産党員には信仰心がない」と誇らしげに語っていた「加害者」が、やがて「癒やされた傷をなぜ開くのか」「過去のことはもういいじゃないか」と動揺し始める。最後は「ジョシュア(監督)、なぜこんな男を連れてきたんだ!」と、カメラに向かって怒りだす。それは自己正当化の防護壁が崩れ落ちる瞬間であり、「化けの皮がはがれる」とはまさにこのことかと感じずにはいられない。その場面を冷酷に捉え続けたところに、この作品のすごみがある。

 オッペンハイマー監督は、虐殺を告発するためにこの映画を撮ったのではないという。

「被害者と加害者の間にあるインビジブル(不可視)な『カーテン』を、ビジブル(可視)にするのが狙いでした。なぜなら、そのカーテンそのものが、インドネシア社会の悪夢だからです」(オッペンハイマー監督)

 事件から半世紀、「加害者」である民兵出身者は、英雄として大臣や地方議会の議長、村長などの地位を築いている。同じ土地で「被害者」の家族は報復を恐れて声を上げられず、下を向いて暮らす。その異常さが悪夢であると監督は言うのだ。

AERA  2015年6月29日号より抜粋