「今日は何を食べようか?」
 家族でするこの相談ほど、のんきで幸せなものはありません。穏やかに全員揃って食卓を囲めることのありがたさをしみじみ感じます。
 朝ごはんの時にお昼の、お昼には夜の献立を考えるのが私の常です。買いものに行って、いいお刺身のサクを見つけると(半分は昆布じめにしておこう)とか、特売の鶏のささみがあったら(一部は蒸しておいて明日サラダにでもしよう)とか、もちろん外に出て食べるのも、あれこれ思案するのが楽しみ、大げさに言うと生きがいなのです。朝も昼も夜もごはんのことばかり考えているわけで、ちょっとメンボクない。
 なんとまあこれで7冊目となるエッセイ集は、初めての食べものしばりで、基調は「今日は何を食べようか」、つまりはいつも以上にたいへんのんきな本となる模様です。重ねてメンボクない。
 思えば小さいころから台所に立つのが好きでした。田舎へ行けば、祖母の脇にいて大きなすり鉢でゴマをあたるのを率先して手伝ったものです。祖母がすり鉢に残った甘く香ばしいゴマ和えの和え衣をごはんにちょんちょんとまぶし、ぎゅっと片手で握って「まなたん、ほら」と口に入れてくれるのが嬉しくて、ツバメのヒナみたいにぱかっと口を開けて待っていたのを思い出します。10歳くらいからは家でも一品任されたりして、いつも張り切ってサラダやおひたしを作っていたっけ。
 食にまつわる本は早くからうっとり読んでいました。小学生時代からの座右の料理書は、今はなき雑誌『婦人倶楽部』の付録「おばあちゃんの台所知恵事典」。昭和57年4月発行のもので、裏表紙はイチジク浣腸の広告です。付録なので安手の佇まいなれど、この冊子あなどるなかれ、約800の役立ちアイデアが満載の豪華本なのです。
 たとえば《火なしコンロの活用を》というのがあって、熱い鍋ややかんをふた付き木箱に入れ、間に布などを詰めて保温しながら余熱で調理すると燃料節約になるというもの。《燃料の不足した戦中、戦後の知恵》だが、《昨今のジャーにも匹敵》とか。ほかにも《パンの耳の利用法》《チャーハンのしょうゆは鍋の縁から入れる》《雑煮の味は、元旦は夫方、2日は妻方の味で作る》。バナナをナイフとフォークで上品に食べる、なんて現代ではたぶん見かけない、胸がきゅんとするような図解もある。ページを開けば、それらにいちいち「へえ!」と感心していた地味な小学生の私が甦ってきます。文字通り私の「おばあちゃんの台所」の匂いが立ちのぼってくる。
 今私の隣にいるのは7歳の娘。あのころの私と同じようにこの“現場”をうろうろ、義母の丹精した大根、千切りにしたのをつまんでみたり、おだしに味噌を溶いたり、おやつの白玉だんごを丸めたり、恐る恐る魚の口を開けて歯を触ったりしている。やっぱり食べること、食材いじりが好きなのです。「何食べてるの?」誰かが口をもぐもぐさせていると思わず聞いてしまうのも娘は受け継いでいて、夫からは「遺伝子ってすごいなあ」と呆れられる始末。
 この娘は常に興味津々で私の手元をのぞき込んでくるので、私は直ちに(かなりいばって)指南を始めます。包丁を握ったら左手はの手みたいに円くし食材を押さえて切ること。青菜をゆがいたら冷水にとること。魚は頭を左にしてお皿に載せること。手綱こんにゃくの作り方。茹で玉子を糸で飾り切りにすること。料理の盛りつけは中高(なかだか)にこんもりと盛ること。お味噌汁をぐつぐつ煮ないこと。時には一緒に手を動かし、時には横で見守りながら、気づけばまさにあの付録冊子のような数々の教えを説いているのでした。もちろん本以上に教わってきた祖母や母、叔母たちからのごはん作りの技。それを娘や今はまだ足元でころころしている1歳の息子に伝えていくことがこれからの私の喜びであり、使命だとさえ思っています。
 たった数年で2人の暮らしが4人になったように、家族というものはとても移ろいやすいカタチです。減ったり増えたり。ただそれが何人でも、中心にあるのはやっぱり食卓だと思う。それを囲む夫や子どもたち、時には両親や友人たちもまじえて、「おいしいね」「おいしいよ」「今日は何食べようか?」と普通に言い合える日々が、普通に続くことを願います。