また、池谷さんは本書で「教育者の犯罪には、日本の学校教育の在り方が影響している」と指摘しているのも見逃せません。



 たとえば、英語で教育は「education(エデュケーション)」ですが、語源はラテン語の「引き出す」という言葉に由来し、子どもが持っている力を引き出し、その可能性を伸ばすことに主軸が置かれています。



 これに対して、日本の「教育」は、文字通り「教え育てる」。これはつまり、絶対的立場の教師が正しい方向に導き、子どもの人格をつくり上げるという概念です。池谷さんは取材を続ける中で、性犯罪を起こす教師の中には「子どもを支配したい」「自分の思い通りにコントロールしたい」という思考を持つ教師が存在したと述べています。子どもを支配し従わせようとする考えは、体罰のような暴力的指導や、性暴力を招きかねません。



 本書の「おわりに」で彼はこう述べています。



「わいせつ教師たちは今、この瞬間も教室で教えている」



 教室という空間は、子どもたちにとって、もはや安全な場所ではなくなっています。実際に教育現場を取材した著者のこの言葉を、わたしたちはどのように受け止めるべきなのでしょうか。