芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、禅について。

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 もう5、6年も前になるでしょうか。ある日、本屋の仏教書の棚で「心配しなさんな。悩みはいつか消えるもの」と題した本が目につきました。著者は板橋興宗。僕にとっては懐かしい名前です。47年前に鶴見の総持寺で初めて坐禅をした時の指導者の単頭老師でした。中身もろくすっぽ見ないで、懐かしさのあまり、思わず買ってしまいました。

 板橋老師は良寛さんの無欲恬淡の人柄を尊敬されていて、良寛さんの残した「戒語」について度々説法をされました。どの言葉も当たり前すぎてかえって考えこんでしまうのですが、板橋老師は禅語には「非思量」という言葉があるが、ひとことでいえば考えないこと、悲しきゃ、悲しめばいい、苦しきゃ苦しめばいい、そこに余計な考えを持ち込まない、これが人生をより上手く生きる秘訣だと、ことあるごとに考えないことを諭されました。

 こんなことがありました。ある日、禅堂の廊下に腰を下ろして庭の銀杏の樹の根元が黄色い敷物を敷いたようになっているのを感動して眺めていたら、雲水がやってきて、落葉を掃けという。僕は雲水に「美の対象として鑑賞したらどうですか」と逆に問うたのです。すると「まあ、理屈はともかく、掃いて下さい」としつこく言います。理不尽なことを言う雲水だと思ったが、禅寺に真似ごとの修行にきているのだ、ここは一歩譲ることにしましたが、どうも納得がいかない。

 そして次の日もその次の日も銀杏の落葉で地面は真黄々。「ざまあみろ」という気持ちだったのですが、別の雲水がやってきて、また落葉を掃けという。あんまりシャクにさわったので、寺の床の下から長い竹を持ってきて、銀杏の葉を片っ端から叩き落として、地面を落葉の山にしてやりました。「ざまあみろ」です。

 雲水たちとのやりとりはラチがあかないので板橋老師と対峙することにしました。老師からすれば、僕は考えることから脱却していないということになるらしい。ここでひとつ「考えない」ということを実践してみてはどうですか、禅の心に従ってみては如何ですかということになりました。銀杏の落葉を掃くということは別に目的ではないらしい。われわれは普段、目的や理由のないことには意味がないと考えているが、禅の世界はどうも意味のないことをすることが意味らしい。僕の住んでいる世界と禅の世界は真逆である。まるで禅の世界は相対的な死後の世界と向き合っているような気分になってきました。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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