100年前に誕生した日本最古の総合週刊誌・「週刊朝日」。多くの苦しみを生んだ悲惨な出来事も、国民みんなで笑顔になった素晴らしい出来事も、独自の視点で報じてきた。その長い歩みを、歴史に残る大事件を報じた数々の記事とともに振り返る。1920~50年代は何が報じられたのか。
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本誌が1922(大正11)年に創刊されてから、わずか1年半後の23年9月1日。午前11時58分に関東大震災が発生した。
東京朝日新聞社は壊滅的被害を受けたが、当時は大阪朝日新聞社が東京に委嘱するかたちで編集していて、印刷は大阪でしていたことから、本誌は震災直後の9月9日に通常どおりに発行され、その甚大な被害についていち早く全国の読者に伝えることができた。
<地妖と云はうか、天變と云はうか、大地怒ると云はうか、總ては言語の外である。一切は恐るべき事實なのだ。私達は災害の前に、唯慴伏(しょうふく)するのみである>
当時、9人の男性記者は、それぞれが東京から自動車や列車を乗り継ぎ、時には川を泳いだり歩いたりしながら大阪に向かい、誌面を作ることができたという。
昭和に入り、日本の帝国主義化が進み、本誌の色合いも、時流に沿ったトーンに変化していく。
31(昭和6)年に満州事変が勃発すると、9月27日号では、「果然、日支兵戰を交ふ」という河野恒吉陸軍少将の手による記事を載せた。詳細がまだ分からないという前提のもと、<こゝに眞相らしい諸情報を綴つて見る>と、その顛末を掲載、<世間ではこの度の事件を直ぐ戰争々々と呼ぶが、これは戰争といふ程度のものではない>とし、今後の日中交渉を見守る姿勢をみせている。
翌32年に満州国が建国され、5月には海軍急進派青年将校らによる「五・一五事件」で犬養毅首相が殺害される。36年には皇道派青年将校らが首相官邸・警視庁などを襲い永田町一帯を占拠する。翌日には、戒厳令も公布された「二・二六事件」が起きた。