ロッキード事件に関連し、田中角栄の交友関係を描いた週刊朝日1976年4月30日号の「ブラック・アングル」
ロッキード事件に関連し、田中角栄の交友関係を描いた週刊朝日1976年4月30日号の「ブラック・アングル」

「ブラック・アングル」を始める少し前、山藤さんは週刊朝日の表紙を描いていた。ただし、評判は芳しくなかった。

「表玄関の表紙に山藤さんの“毒とエスプリ”はキツすぎるが、他誌に盗(と)られるのは悔しい。奥座敷の最終ページを差し上げます。毒でもエスプリでも十分に発揮してくださいよ」

 と、当時の編集長が口説き、76(昭和51)年、こうして「ブラック・アングル」が誕生した。

 次々と傑作が生まれた。武者小路実篤さんの死去とロッキード事件の角栄・児玉・小佐野各氏の“金友関係”を組み合わせた「仲よき事は美しき哉」(76年4月30日号)。岸田劉生の代表作「麗子像」が大平正芳首相の顔になった「麗子微笑」(79年5月4日号)。小沢昭一さんがこの絵が好きで、

「あれ見てると元の麗子の顔がどうしても思い出せないのよ!!」

 画風模写、切り絵、ヘタウマ絵、マチエール絵、和紙絵などの手法、テクニックを駆使して描き、落語や俳句、川柳、狂歌、パロディー、語呂合わせで鍛えた言葉を添える。なにより圧倒的なセンスで他の追随を許さず、「週刊朝日を後ろから開かせる男」と、呼ばれるようになった。

 山藤さんのファンは作家や芸能人、文化人にも多い。そのひとり、山口瞳さんの「山藤の前に山藤なく……」(80年)という文章がある。銀座を山藤さんと歩いていると、向こうから酔った野坂昭如さんが現れ、すれ違いざまにいった。

「ヘッ、よく描かれようと思って……」

 当代の似顔絵師にお世辞を使ってやがると、いいたげだったという。

 その野坂さん曰(いわ)く、

「山藤の描くわがご尊顔はヒトというよりチンパンジーに近いのだが、ふと鏡を見れば、映っている顔はどんどん山藤の描く顔に似てくる」

 キレキレの山藤さんに疲れが見えてきたのは、70歳代半ばからだと思う。

「最近の政治家の顔を描く気がしないんだよ」

 ということが多くなり、その時期に頂いた手紙にはこうあった。

<マッカーサーは「老兵は死なず…」と言いました。(略)「週刊朝日」からいつか引退しなくてはなりません。これは致し方のないことです。いまのまま、居座っていいのか、どうか迷っています>

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