もう何度読んだろう。武田百合子『富士日記』(上・中・下 中公文庫)を手に取るたび、日記の奥でもぞもぞと蠢く野生に行き遇う。その正体はいまだに茫洋としたままだが、とても慕わしく、つねになまなましい。
昭和39年7月から51年9月まで続く長大な日記だけれど、いつも冒頭から読み通す。それは、日記がしだいに濃度を帯びてゆくさまに触れたいからだ。
老いた夫、武田泰淳が病床でつぶやく言葉をこう書きつける。
「『生きているということが体には毒なんだからなあ』
私は気がヘンになりそうなくらい、むらむらとして、それからベソをかきそうになった」(昭和四十七年六月二十四日)
不慮の事故で喪ってしまった愛犬を悼みながら、「ポコ、早く土の中で腐っておしまい」。年々歳々『富士日記』に手を伸ばす頻度が上がっているのは、生と死にまつわるナマの言葉の匂いを嗅ぎたいからなのだろうか。
武田夫妻が住む山荘をひょっこり訪れる作家、深沢七郎には『書かなければよかったのに日記』『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)がある。訪ねた土地に住みついてしまう癖があり、いや、旅先でなくても深沢七郎が書く日常はひとを喰っていて、ひと筋縄ではいかないズレや可笑しさがある。
「下宿生活で、用事もなく、外出して、ぶらぶら街を歩いたりして、その日がすぎて行けば、人の一生はそれでいいのだった」(『書かなければよかったのに日記』風雲旅日記)
自分の前にナニカが現れて消え、べつのナニカが現れては消える。しじゅう動いて定まらないありさまを綴るのが日記という書き物だとしたら、そうか、うねうねくねくねだらだらと流浪していいのだな。
※週刊朝日 2021年5月21日号