藤王康晴、山之内健一、萩原誠、…プロの壁が厚かった「高卒スラッガー」 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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藤王康晴、山之内健一、萩原誠、…プロの壁が厚かった「高卒スラッガー」

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牧忠則週刊朝日
第70回全国選手権大会1回戦の法政二(神奈川)戦で、先制本塁打を放つ福岡第一の山之内健一(C)朝日新聞社

第70回全国選手権大会1回戦の法政二(神奈川)戦で、先制本塁打を放つ福岡第一の山之内健一(C)朝日新聞社

第72回全国選手権大会3回戦の松山商(愛媛)戦で、逆転の3点本塁打を放つ鹿児島実の内之倉隆志(C)朝日新聞社

第72回全国選手権大会3回戦の松山商(愛媛)戦で、逆転の3点本塁打を放つ鹿児島実の内之倉隆志(C)朝日新聞社

第73回全国選手権大会決勝の沖縄水産戦で、先制の2点本塁打を放つ大阪桐蔭の萩原誠(C)朝日新聞社

第73回全国選手権大会決勝の沖縄水産戦で、先制の2点本塁打を放つ大阪桐蔭の萩原誠(C)朝日新聞社

 清原和博(元オリックス)、松井秀喜(元大リーグ・ヤンキース)、福留孝介(阪神)のように、甲子園を湧かせたスラッガーがプロ入り後も球史に名を刻む数字を残したケースは、実は少ない。金属バットから木製バットに変わり、高校生とは全く違うプロの投手の球のキレ、制球力に対応しなければいけない。周囲の期待が重圧に変わり、自分の長所に自信が持てなくなり、試行錯誤の末に輝きを失う選手が多いのだ。藤王康晴、萩原誠、山之内健一……。彼らも「超高校級スラッガー」として活躍を嘱望されたが、プロの壁は厚かった。

【写真】大阪桐蔭高のスラッガーとして活躍し「掛布2世」とも称された元阪神の萩原誠

・藤王康晴(中日、日本ハム)
※通算成績237試合出場 打率2割2分、10本塁打、37打点

 愛知の強豪・享栄高で1年秋から4番で活躍。3年春の選抜大会に出場し、大会記録の11打席連続出塁、3試合で打率9割と驚異的な数字をマークした。身長184センチと恵まれた体格から豪快なスイングで高校通算49本塁打を記録。地元の中日に1983年秋のドラフト1位で入団し、左打ちの長距離砲として背番号「1」を与えられるほど期待は大きかった。

 高卒ルーキーの84年、夏場から1軍に昇格して34試合出場で打率3割6分1厘、2本塁打の好成績を残したがその後は定位置をつかめず、90年に日本ハムにトレード移籍。92年に現役引退後は佐川急便のセールスドライバー、実家の織物修整業を継いだことが報じられたほか、硬式野球部「矢場とんブースターズ」の監督を務めた。

・山之内健一(ダイエー=現ソフトバンク)
※通算成績7試合出場 打率0割、0本塁打、0打点

 福岡第一高で同学年のエース・前田幸長(元ロッテ、中日、巨人)と共に3年夏に甲子園出場して準優勝に導く。異名は「九州のバース」で、高校通算48本塁打をマークした。88年秋のドラフト5位で地元のダイエーに入団し、同年まで主砲・門田博光がつけていた背番号60を継承。左の強打者として期待されたが、1軍出場は7試合のみ。94年限りで現役引退後は、「新東京プロレス」に入団してプロレスラーを目指したことが話題になった。

・内之倉隆志(ダイエー)
※通算成績118試合出場 打率2割1分6厘、2本塁打、11打点

 鹿児島実で3年春・夏に甲子園出場。「4番・三塁手」で計4本塁打を放つなど高校通算39本塁打をマークし、右の長距離砲としてプロの注目を集めた。90年秋のドラフト2位でダイエー、近鉄、広島の3球団から指名を受け、交渉権を獲得したダイエーに入団。首脳陣に強肩が注目され、内野手から捕手にコンバートされるなど様々なポジションで出場機会を模索したが、98年の64試合出場が自己最多と1軍定着できず。02年限りで現役引退し、現在はソフトバンクでブルペン捕手を務める。

・萩原誠(阪神、近鉄=現オリックス)
※通算成績124試合出場 打率1割9分2厘、4本塁打、14打点

 中学時にボーイズリーグ・大東畷で全国制覇を達成し、大阪桐蔭高では甲子園に2回出場。高校通算58本塁打を記録し、3年春は4番で打率6割8分8厘、3本塁打と甲子園初出場初制覇に大きく貢献した。地元・阪神に91年秋のドラフト1位で入団。三塁で背番号「31」を与えられ、「掛布2世」と期待された。

 2軍では93年に打点王、96年に首位打者を獲得したが、1軍出場は95年の54試合が自己最多と持ち味の打撃でアピールできず。97年オフに近鉄にトレード移籍したがファーム暮らしが大半で、2001年限りで現役引退した。引退後に柔道整復師の資格を取得し、奈良市で整体院を開業している。

・紀田彰一(横浜=現DeNA、西武)
※通算成績6試合出場 打率1割、0本塁打、0打点

 横浜高で右のスラッガーとして高校通算41本塁打をマーク。3年夏に出場した甲子園の1回戦・那覇商戦では全打席敬遠気味の四球で勝負を避けられて話題になった。同校はプロに入団する多村仁志、斉藤宜之、矢野英司が同学年にいるタレント集団だったが、当時は紀田の注目度が断トツで高かった。

 94年秋のドラフトで横浜(現DeNA)と中日が1位指名で競合し、交渉権を獲得した横浜に入団。地元出身の和製大砲として期待されたが、故障にも悩まされて96年に6試合出場したのみ。99年オフに戦力外通告を受けた。テスト入団で西武に移籍したが1軍出場機会はなく、00年限りで現役引退した。05年に大リーグ・ヤンキースの極東スカウトに。ヤンキースとスカウト契約した初の日本人だった。(牧忠則)

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