芥川とともに東大同人誌「新思潮」のメンバーだった久米正雄も、スペイン風邪で生死の境をさまよった一人。大正8年2月1日に自作の戯曲が上演されていた大阪から帰京すると、翌日には風邪を自覚。5日に予定されていた知人の結婚式を欠席すると、診察した友人の医師は、自らの手には負えないとノーベル医学賞候補にもなった東大病院名医・呉建に助けを請うたほどだった。そのおかげもあって回復した。

 もう一人の「新思潮」メンバーだった菊池寛もこの時期、危うくスペイン風邪になりかけた。菊池は2度目のスペイン風邪から回復した芥川と大正8年5月4日、長崎旅行に出発した。車中で菊池は頭痛を感じて岡山駅で途中下車。もしものときは故郷の高松に渡り、養生するつもりだった。その気持ちを察したのか、芥川は下車する菊池に「君は讃岐で生れたのだから、讃岐へ死にに帰るというわけになるのじゃないかなあ」と言ったという。

 芥川に不吉なことを言われた菊池は駅前の安宿に宿泊。菊池はのちにこの旅について、「流行性感冒以来、病気に就いては極端に憶病になっている。このまま、長崎へ行って病みついたりしては事だと思ったので、芥川に一足先へ行って貰って、自分は岡山で一旦下車することにした」(「長崎への旅」)と書いている。菊池がスペイン風邪を疑ったのは、旅の前日に病後の久米正雄に会ったことも関係していた可能性がある。

 それでも旅を続けるのが菊池の菊池たるゆえんである。頭痛を抱えたまま、翌日からは尾道、下関などを経由して5月7日、芥川から2日遅れで長崎に着いた。恐れていた感冒ではなかったようだ。

 長崎滞在中の芥川は、歌人の斎藤茂吉と面会している。茂吉は大正6年末から長崎医学専門学校教授に任じられ、併せて県立長崎病院精神科部長として赴任していた。まるでスペイン風邪が芥川の後を追いかけるように、茂吉のいる長崎でもこの年の暮れ、スペイン風邪が猛威を振るった。医師として、歌人として、茂吉は長崎を襲ったスペイン風邪をこう詠んでいる。

「寒き雨 まれまれに降りはやりかぜ 衰へぬ長崎の年暮れむとす」

 その茂吉が感染したのは大正9年1月だった。6日に東京から訪れた義弟とホテルで食事をして帰宅した後、急激に発熱して寝込んでしまった。ウイルスは茂吉の肺を襲い、肺炎を併発。一時は生死の境をさまよい、命も危ぶまれた。妻と子にも感染した。茂吉が床上げしたのは2月15日、勤務を再開したのはその10日後だった。茂吉の勤務した長崎医学専門学校では、同僚の教授と校長がスペイン風邪で命を落としていた。今でいう「クラスター」だろう。このとき茂吉が詠んだ歌が、「はやりかぜ 一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが 吾は臥(こや)りて 現(うつつ)ともなし」だ。茂吉の予後は悪く、6月には喀血し、しばらく温泉を転々として療養する一年となった。

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