宮尾登美子さん (撮影/石動弘喜)
宮尾登美子さん (撮影/石動弘喜)
林真理子さん
林真理子さん

 連載開始25周年を迎える林真理子さんの「マリコのゲストコレクション」。歴代の女性ゲストの話から、「生き方を考える言葉」を選りすぐり、振り返ります。今回は、『鬼龍院花子の生涯』『きのね』『天璋院篤姫』など、数々の名作で知られた宮尾登美子さん(1996年12月20日号)。宮尾さんの新刊が出るたびに手に取り、次作を待ち焦がれたという宮尾ワールドの大ファンであるマリコさんは今年、宮尾さんの評伝を出版しました。激動の時代を生きてきた宮尾さんの人生に対する好奇心は尽きず──。

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林:田舎に嫁がれて、自分で糸を紡ぐような農家のお嫁さんを、何年もやってらしたんですよね。

宮尾:二十年。私は自分で積極的に運命を切り開いていく人間じゃない。ある程度辛抱して、耐えられなくなったらそこから出るというタイプでしょ。私はいま七十歳ですけど、七十年の中のあの二十年は私にとって無駄だったとずっと思ってたわけ。さっさと離婚して東京へ出ていれば、もっと早く作家になれたかもしれないと悔やんでたんですけど、このごろそれはなくなりました。それは『藏』を書いて。

林:あ、そうなんですか。

宮尾:私、いま作家生活二十四年目で、作品が十九しかないんです。その中で十八作までは実在のモデルがあるの。『藏』はストーリーも人間も、初めて自分の想像上の創作だったの。お酒のことと目に障害のある少女を書きたい、それを合体させてストーリーを作ろうと思って、それで取材をしたら、どうしてもその家は農村でないとダメなんです。そのときに私の農村の二十年がよみがえったんです。もしあの二十年がなかったら、私は東京の貧乏生活か、あるいは花街のことしか書けない作家だったと思う。

林:でも、先輩の女性作家の生き方を見てると、「私、農業なんかいや。東京へ行く」という方がほとんどですよね。

宮尾:私は子供がいたから。二人産んでるでしょ。離婚の話が何度出ても、姑に「子供は家についたものだから、帰りたければ子供を置いて帰りなさい」って言われて。それが当時の考え方だったけど、絶対に離婚できなかった。だから離婚は女流新人賞をもらうまで待ってたわけ。賞もらって、これで子供を養えると思ったの。そしたら貧乏のどん底。高知にいるとき、「文芸春秋」なんかから依頼があっても、書いたものは「あなたの原稿は箸にも棒にもかからない」という手紙つきで、どんどん突き返されてくる。

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