3月15日に万博が開幕すると、世界中から多くの人が会場を訪れた。嘉門さんは、万博見物で泊まりに来た親戚にくっついていったりしながら計21回訪れたそうだ。

「書店につとめていた父が、公式ガイドブックやマップを会場内で売る売店の統括のようなことをしていたんです。ですから父はそれこそ『職場』として万博に通っていました。来場者はゴールデンウィークあたりで一気に増え、夏に爆発的に増えていきましたね」

 当時の嘉門少年にとって印象的だったのは各国から集う外国人の存在だった。

「パビリオンにいるそれぞれの国の人。初めて動いている外国人を見たのではないでしょうか。肌の色、着ているもの、体臭までもが違う人たちがそこら中にいる。物珍しくてノートに外国人のサインをもらっていました(笑)」

 嘉門さんが現在も所有する当時のノートを見せてもらうと、パビリオンの係員か何かだろうか、タイ、マダガスカル、ガボンといった国の人の(もちろん有名人などではない)名前がそこに記されていた。

「はじめはそれが珍しかったんでしょうけれど(笑)。やがて各パビリオンにスタンプがあることを知ってそれを集めるようになり、それからバッジ集めもするようになりました」

 万博フリークから2020年のドバイ万博日本館PRアンバサダーに任命された嘉門さん。半世紀たったいま、どんな部分に魅了されたのだろうか。

「一見、脈絡のないものが一堂に会するモザイク的な感じでしょうか」

 と語る。あの時代、勢いのあった日本社会はそうした多様性を歓迎する空気に包まれていたのだろう。

「パビリオンのデザインも展示も、それぞれの個性があって、一歩出ればまた違う世界に行ける。テーマの違うものが集まって、ひとつのテーマを生み出している、そこがおもしろいところではないでしょうか」

 そして、自身の作品も影響を受けている。

「全然脈絡ないフレーズをつないでいってひとつの歌にした僕の『替え唄メドレー』も、そういう意味では万博的なのかな、と思っています(笑)」

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