見城:栄一も武道に打ち込んだ時期があり、京都では新選組の近藤勇とも接点がありました。腕前はどうでしたか。

渋沢:それほどでは……。

見城:実業家で幸いでしたね(笑)。渋沢にとっての恩人といえば──。

渋沢:徳川慶喜公です。「勉強させれば、役に立つヤツだろう」と慶喜の弟、昭武公のパリ万博出席と欧州滞在のお供役に推薦してくれた。人生の転機でした。

 栄一は尊王攘夷思想の影響を受けてはいたが、西洋人への反感はない。ちょんまげを落として洋装に着替え、コーヒーを飲めば、「こんなうまいものはない」と感激する柔軟さがあった。

 何より、西洋の政治経済を目で見て、日本はかなわないと悟ったのでしょう。

見城:渡仏中、栄一はお金の運用や経済を学びます。

渋沢:30人近い昭武のお供が、外国で1年半も生活するには金が要る。庶務担当の栄一は、現地で公債などの投資で資金を増やしてしまう。実地で学んだ経済学は大いに役立ったはずです。

■柴三郎の窮地を救った福沢諭吉

見城:柴三郎も留学が人生の転換期となりました。

北里:東京医学校(現・東大医学部)を卒業後、内務省衛生局に勤めます。

見城:内務省の月給は70円。県立病院長職に就き、250円の高給を得た同級生もいましたから、それらに比べると待遇は悪い。

 一方で、衛生状態の悪い明治期の日本では、伝染病は深刻な問題でした。柴三郎は、「利他の精神」で公衆衛生に取り組む道を選んだわけですね。

北里:ええ。でも、その内務省で転機となるドイツ留学の辞令がおりた。

見城:ドイツ細菌学の第一人者である、コッホの研究室で学んだのですね。

北里:第2の恩人です。留学して3年の1889(明治22)年に、柴三郎は破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功します。学会で発表した翌日の新聞の1面に、「東洋人が素晴らしい研究成果」と掲載されますが、「日本人」としか書かれなかった。

見城:欧米優位の風潮のなかで、日本人が認められるのは難しい時代でした。

北里:ええ。翌年には、免疫血清療法を発見したものの、留学期間は終わろうとしていた。すると、柴三郎の活躍を耳にした明治天皇が、「ぜひ研究費を送ってやれ」と千円も送金くださり、助かった。いまの貨幣価値で1千万円です。

渋沢:大金ですね。

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